Rhizomatiks ライゾマティクス inspired by Perfume 2013

ライゾマティクス inspired by Perfume 2013を観てきた。

会場内は4つのコーナーに分かれていて
◎45°のハーフミラースクリーンに擬似3D映像を投影するシアター(15名入れ替え制)
◎LED電飾ドレス3バージョンの展示コーナー
◎人体3Dスキャナー体験コーナー
カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバルで使用したドレスとプロジェクションを使用したパフォーマンス再現コーナー
シアターは会場入口右側にあるが、順路は無いので他の展示を観てから並んでも良い。
2本の作品が上映され、1本は3人のパフォーマンスを完全にCG化したものでもう一本は実写。
かなり3D感(浮遊感)はあるが、スクリーン正面奥にはメンバー3人の白い立体像が立っているだけなのでちょっともったいない。
キリン氷結のパフォーマンスあたりが観られるかなと少し期待していたんだけど残念。まぁ映像だけじゃ面白くないかな。
実写映像では3人が円周上に等間隔に並び途中違う位置になり、そこからちょっと不思議な動きをしてアレッと思うとまた見事に円周上に戻るという振り付けがあってさすがPerfume。
あと閉じられた狭い空間に次から次へと人が入っているのでやや体臭が(笑)。
斜めハーフミラースクリーンって前からあって仕掛けは単純なんだけど、上手に映像が作ってあると観る側が勝手に脳内3D感を得てしまうという、作る側観る側お互いお得なやり方かもしれない。
6年前にそれを4面組み合わせてこういうやリ方で映写する立体映像システムがあったけど、日本では価格に見合う使用目的が見つからなかったようだ。
上記のシステムを天地ひっくり返して小型化したこういうのもある。このくらい小さいとウィンドゥディスプレーとかで商品になりそう。これをダンボールとフィルムミラーでうんとチープに作ってプロジェクターはレンタル、Perfumeの映像でショップのCD/DVDコーナーに置けたら楽しい。
電飾ドレスは3人分×3バージョン9体展示されていて、音楽に合わせて光っている。
ただ今日10/5は1バージョン点灯していなかった。
綺麗に作られていてLEDは明るいし、制御ソフトも各バージョンごとに画面でシミュレーション出来るよう専用に作成されているなど力が入っていて面白かったけれど新しさは感じられなかった。
3Dスキャナー体験コーナーは混んでいる上に、しばらく観ていても何がどう進行しているのか分からなかったのでパス。数メートル先に3Dスキャナーらしきものはあったのだが。。。
カンヌでのパフォーマンス再現コーナーが一番の目玉だと思う。
3人分3体のドレスが2組横に並べておいてあり、灯りがついている間はスカートがモーターで開くデモをしていてドレスの裏に回って機械の動作を見ることもできる。
灯りが消えるとまず左側の3体でこの映像の最初から2:10頃までのパフォーマンスが再現され、次に右側の3体で上記の映像の2:26頃からのパフォーマンス(のややダイジェスト?)が背面のスクリーンと共に再現される。
入場料¥500で目前で観られるのは安い!
つくづくプロジェクターの進歩に感心する。プロジェクターといえばこんなことができるのも今ならでは。
思い出したが70年万博にチェコが出展していたラテナ・マジカ劇場というのがあり(観たんです(笑))、これがフィルム映像と人のパフォーマンスがからむというもので(例えばステージ上の人物が映像に出たり入ったりする)アイデアは40年以上前からあったことがわかる。話題がずれました。
さて、ライゾマティクス inspired by Perfume 2013の会場と同じ階でオープン・スペース2013という無料の展覧会をやっていてそちらも覗いてみた。
そこでティル・ノヴァクなる人物の出展していた「遠心力体験装置」なる展示の映像に目が釘付けに!
遠心力研究所なる架空研究所の博士が新たな遊園地の乗り物を考案するという内容で、これが会場で上映されていた映像そのもの(会場のは日本語字幕がついていた)。
乗り物映像の出来が素晴らしい! いかにも素人が撮りました風のムービーが見事に加工されている。
博士の解説もいちいち人を喰っていて、これはキテる。遠心力研究所のホームページもちゃんとある。
遊園地の乗り物関連の映像の中に紛れ込ましておきたい!
今日最大の収穫はこれ。

2013年10月5日

大越電機工業製作所の販売基板で製作したCRTターミナル 1979頃

NIBL BASIC ROMを買ったのは東急ハンズだった! 1978 の中で書いた自作CRTターミナルに使用した基板の資料が出てきた。

購入した基板と一緒に送られてきた回路図その他である。まず、コピーが青焼き。
大越電機工業製作所 雑誌広告
これはトラ技の広告原稿そのものと思われる。
左側の22,23,24番3枚の基板を購入した。
大越電機工業製作所のウェブページ
両面基板作成可能だがスルーホール無しというのはこの当時と同じ。ガーバーデータ受付なし、短期間作成も不可と我が道を行ってます。
あれ?更新日2008年6月1日で「現在、受注を中止しております」だって?
(22)CRTディスプレーキャラクター用基板
大越電機工業製作所 CRTディスプレーキャラクター用基板回路図
22ptn2.jpg

(23)CRTディスプレーコントロール用基板
大越電機工業製作所 CRTディスプレーコントロール用基板回路図
23ptn.jpg

(24)UART・エンコーダー・フルキー用基板 および22,23,24基板間接続図
大越電機工業製作所 CRTディスプレーUART・エンコーダー・フルキー用基板回路図
connect.jpg
keyptn.jpg

これが変な並びのキーボード(当時書いた配置図)。
うーん(笑)。
基板だけ買ってよく動いたものである。
確かパターン修正しないと動かなかった記憶もあるし。。。

2013年9月23日

LMD-649に使用したメモリボードMD-64 1981

LMD-649に使用したメモリボードの資料が出てきた。画像クリックで拡大。

まず以前のブログでメーカー名を間違っており、株式会社テックメイト製だった。

MD-64 64Kバイト ダイナミックRAMボード パンフレット 1
MD-64 64Kバイト ダイナミックRAMボード パンフレット 2

右が価格表。今から見るとどうしてボード単体やキットで売っているのか不思議に思うかもしれないが、当時はおカネのないユーザー向けに出す必要があったのだろう。
価格表の日付は1978年なので私が購入したときは価格が下がっていたかもしれないが、メモリの値段が凄い。ビット構成をよく見て欲しい。
キロバイトの時代である。
上左のパンフレットにも書いてあるが、外から見るとスタティックRAMボードと同様に使えるのがメリット。
このボードにDRAMを64KB積み、2枚(8bit+4bit)使って12bitA/D,D/Aに対応させ、パンフレット左の図にある8080システムの接続方法で使用していた。このLMD-649を正面から見た画像のケージ一番右寄りの2枚である。
このパンフレットの住所に直接買いに行った記憶があるが、併設されたショップはガラスショーケースが1つ2つある小さなものだった。

他にもメモリボードのパンフレットがあったので載せておく。

MC-16 16Kバイト メモリボード パンフレット 1
MC-16 16Kバイト メモリボード パンフレット 2
MS-16 16Kバイト スタティックRAMボード パンフレット

上中央のパンフレットの中の「市販のマイコンキットの中には、アドレスのデコーディングが不完全なため、不使用空間のほとんどないものがあります。」の一節が当時の状況を偲ばせる。
メモリ増設を考慮せず、というよりICチップ数を減らして全体を安く(簡素化)するため簡易なデコードで済ませていたのだ。

MR-16 16Kバイト RAM/ROM/PROMライタボード パンフレット 1
MR-16 16Kバイト RAM/ROM/PROMライタボード パンフレット 2

上のPROMライタ付きRAM/ROMボードは、レーザーディスプレーの仕事で使っていた。
当時単体のPROMライタは値段が高く、ボード単体ソフトいらずスイッチひとつでPROMに書き込めるので便利だった。
なんとこちらのサイトでこのボードのマニュアルボード画像(スクロールすると出てくる)が公開されている。
物持ちの良い方があちらこちらにいらっしゃるのには感心・感謝である。

8KスタティックRAM 8308ADP

こちらは上で紹介したボード画像にも出てくる。
本来ボードに載せるべきRAMが手に入りづらいため、半分の容量のRAMを2個乗せて代用させるアダプター付きRAMである。

2013年9月9日

ハウステンボスを走っていたクルマ 1992~1994

ハウステンボスで撮影したクルマの画像を集めてみた。

ハウステンボス クラシックバス 1

ハウステンボス クラシックバス 2
ハウステンボス 日産エスカルゴ


これら3枚はオープン前、’92.2.23に撮影

さすがにバスもピカピカ。
3枚目は日産エスカルゴに安っぽいボンネット+グリル風をくっつけたもの。青いボディだけで素敵なのに。。。
ハウステンボス 救急車 クラシックバス
ハウステンボス クラシックパトカー デリバリーバン
救急車やパトカー、デリバリーバン等の働くクルマたち。
上右はアムステルダムから。
htb_car10.jpg
上の画像、自分の足が写りこんでました。失礼。デンハーグから。

ハウステンボス ガスステーション

ハウステンボス 日産フィガロ
左・ハウステンボス内のガスステーション。クラシック(ルック)タクシーが給油中。
右・おなじみフィガロ
市販車にない原色カラーが魅力的。
ハウステンボス ロータスセブン

1992年5月マリンターミナルの前に停まっていたロータス・セブン(ケーターハム・セブン?)。ドンカーブートではなさそうだ。
なぜこのクルマが園内専用車になったのか謎だが、21年後の現在でも生き残っている(こんな感じで置かれている?)ところを見ると元は取れているかな(笑)。

2013年8月30日

ハウステンボスのオープニングCM 1992

ハウステンボスのオープン時、サウンドギャラクシーに仕事で関わったことなどを以前書いたが、ふと、ハウステンボスのオープニングCMを思い出した。あのピーター・オトゥールの出演したCMである。

バブルの余韻十分のキャスティングと雰囲気。
なんとYouTubeに動画があった。 運河編は覚えていたが、街並み編は記憶に残っていなかった。
このCMが撮影された時ホテル・ヨーロッパでは「ミンボーの女」が撮影中であり、監督の伊丹十三映画で共演したことのあるピーター・オトゥールと再会し旧交を温めた、と「ミンボーの女」のパンフレットに書いてあった(はず)。
 
この後、スティングが出演したシーガイアCMとバブル期リゾートCMの双璧をなしていると思う。

2013年8月18日

 
2013年12月追記
ピーター・オトゥール氏が亡くなられた。自分にとって意外だったのは、氏がまだ81歳だったこと。
上記のハウステンボスCM出演時は59歳だったことになる。演出上だったかもしれないが、もっとずっと老年のように見える。
 

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東京大空襲 1945

1945年3月10日、10万人が亡くなった東京大空襲の日である。
もちろんまだ私は生まれていない。

私の父は空襲の炎の真っ只中にいた。

父は祖父と一緒に実家の目の前の国民学校の講堂に避難していた。
現在の東京都立浅草高等学校である。
しかし、火の手が迫りここにいては危ないと講堂の高い窓から外に出て校庭の防空壕に身を隠し、祖父共々助かった。講堂にいた人々は皆亡くなったそうである。

母は千葉の方に家族で疎開していたが、空襲の翌日、東京の仕事先(学徒動員と思われる)にやって来てそこいらじゅうにある遺体を目撃している。

私の通っていた小学校は台東区立富士小学校だが、そこでも避難した多くの方が亡くなっている。
また、当時田舎に疎開していた生徒たちが不運なことに空襲の前日に一時帰宅しまきこまれたいう話も聞いた。

広島や長崎には公的な資料館があるのに東京には無い。

2013年3月10日

浅草松屋 スカイクルーザー 1959

私は浅草近くの生まれで子供の頃は親に連れられて浅草松屋屋上の遊園地に遊びに行っていた。屋上は遊園地だけなくミニ動物園も兼ねており、アシカ(オットセイ?)の飼われていた檻を覚えている。

デパート内には大食堂やホール、結婚式場まであって今に例えるならショッピングモールや遊園地が合体したような施設だったと言えるだろうか。
屋上には「スカイクルーザー」という名の回転式展望台(展望アトラクション)があった。
実家にあった古い写真の背景に浅草松屋が写っている。1959年に父が私を写したもので、隅田川の対岸にあったアサヒビールの工場の前あたりから撮られている。画像はクリックで拡大。
 
matsuya1.jpg
屋上を拡大すると
 
matsuya2.jpg
 
 
 
 
 
左からスカイクルーザー、中央に飛行塔、右に観覧車が見え、またデパート壁面に「結婚式場」「大食堂」などの文字が掲げられている。
 
 
 
matsuya3.jpg
右側の輪の部分がスカイクルーザーの観覧席である。
左側の建物から斜めに伸びているのが搭乗用のブリッジと思われる。
 
 
 
 
 
 
 

 

以下、他のページの画像にリンクさせていただく。クリックで元ページを表示。
 
Skycruiser3.jpg
この絵葉書では松屋屋上の飛行塔と観覧車が見え位置関係がわかる。
スカイクルーザー乗り場への階段はお客さんでいっぱいで人気があったようだ。
スカイクルーザーという名前、今でも古びた感じがしない。ミニバンのネーミングにありそうだ(笑)。
なんて言ってたらバーB747のネーミングに使われていた。
1950年登場当時どんなにかっこよく聞こえたことだろう。
 
 
 
Skycruiser1.jpg
左の画像でスカイクルーザーの構造がよく分かる。
観覧席の回転軸は垂直ではなくやや傾いている。
それだけでは斜めに回るだけだが、建物上の取付台と観覧席部分の間に見える多角柱を斜めにカットしたようなくさび型の部分が観覧席とは逆に異なるスピードで回転する仕掛けになっている。

回転式展望タワーのようなゆっくりとした回転ではあるが、2つの回転の組み合わせにより回転と傾斜方向の予測がつかずなかなかスリリングだった。

 
 
 
 
Skycruiser2.jpgこちらの画像は1955年(私の写真の4年前!)のアメリカ映画「東京暗黒街 竹の家」のワンシーン。
背景の赤い細長い屋根は仲見世と思われる。
観覧席には当然?!安全ベルトなどというものは無く、外側の手すりも頼りないくらい低い。
私の写っている写真を見直していただきたいが、松屋の隅田川側は2階建ての木造家屋ばかりであり、隅田川の反対方向に当たる左の画像方向でも最も大きな建物が国際劇場位で、スカイクルーザーから見た景色の開放感たるや素晴らしい(結構怖い)ものだったと記憶している。
 
 

Matsuya_amusement_park.jpg

浅草松屋の屋上遊園地営業終了を伝える左のニュース内に1971年当時の空撮映像があり、外観は異なっているがスカイクルーザーらしきものが映っている。
Wikipedia他のページでも1960年に撤去されたと書かれているが、さて実際はいつまで現役だったのだろう?
 
 
 

2013年1月3日

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32年前の今日 “YMO FROM TOKIO TO TOKYO” 1980

音楽テクニカルライター布施雄一郎さんのブログ“口は災いの素”にコメントを書いたところ、ご返事のコメントをいただいた。

その中で、32年前の今日武道館で行われた”YMO FROM TOKIO TO TOKYO”公演中の電飾について(以下引用)
…と今日、当時を懐かしみながらコズミック・サーフィンの画を見ていたら、イントロからAメロに入る瞬間に、センターに『M』の文字が一瞬見えまして。左右の端がフレームアウトしているのですが、その瞬間『あれ?』と思って見直したら、このタイミングの一瞬だけ、『YMO』と表示されていたんですね!!!
http://twitpic.com/bplmo1
とあったので補足させていただく。
この日ファイアクラッカー後アンコールに入り、パネル全点灯のままタイトゥン・アップ。
次のコズミック・サーフィンのイントロで”YMO”の文字を残すようにパネルがポツポツ消えていき、Aメロで”YMO”を表示。
その後”YMO”の文字を連続して上スクロールさせる演出だったのだが、どのタイミングまでスクロールさせていたか忘れていた。が、今日DVDを観ていて私自身映像からそのタイミングを思い出すことができた(笑)。
“YMO”の文字が表示され、この後文字が1ブロック上に動くのが一瞬見える。
1980 YMO武道館コンサート YMOロゴ
そしてスクロールは続き。。。
このカットで背後に”Y”の右上のブロックが見え、
YMO_Logo2.jpg
次のこのカットで”Y”が1ブロック上へスクロールしていることが分かる。
YMO_Logo3.jpg
そしてこの後文字は消え、四角ブロックの点滅へと切り替わっていく。
布施さんのブログにコメントを書かせていただいた時点で日付は全く意識していなかったのだが、
奇しくも32年後の今日このブログを書けるとは、布施さんに感謝いたします。
探せばまだこんな小ネタが出てきそうである。

2012年12月27日

ジャパマハイツ 1979頃

ナック マイ・シャローナ 1979で少し述べたYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家。平屋だがアメリカサイズ?で、玄関を入った広いLDKを中心に周りに8~10畳くらいの部屋が3つくらいあったと思う。冬は寒くLDKには煙突付きの大型石油ストーブ(ポット式)が置いてあった。上記のジャパマハイツのページでは”夏暑く”とあるが、夏は湿度が低く快適だったと記憶している。

福生駅を降りると駅前には送迎用の米軍基地ナンバーのクルマがとまっていたりした。

 ジャパマハイツには独特の雰囲気があり、住民同士の何かユルーイ連帯感みたいなものがあった。当時目新しい黄色いデリカが運搬車だったが、近所のジャパマハイツ内に全く同じ車がいてたまにすれ違うとお互い手を振ったりしていた。そっちの家には飼い犬がいて、こちらが前を通るとご主人のお帰りかと勘違いし通りに出てくるのだった(笑)。
 
まぁ良い話ばかりでもなく土地の権利関係がゴチャゴチャだとかで境界線でもめたり、自分の土地だと私道に杭を打ってクルマが通れなくなったりした、なんていう話があった。あと都市伝説めいた話だが、ある時空き地に家の建築が始まったが途中で中止され材木の山だけが残った。そのうち材木がちょっと減り、またしばらくするとちょっと減り、いつの間にか全部無くなってきれいになってしまったとか(笑)。
 
さて、Yさんのハウスの隣は大瀧詠一さんの小スタジオ兼趣味用?のハウスだった。これは偶然ではなくYさんは大瀧さんの古い知り合いだったから。覗かせていただいたことがあるが、ひと部屋はレコード棚にターンテーブルと小さなミキサー、テープレコーダー、スタンドマイクの置いてあるDJ用で確か当時そこでラジオ番組を制作なさっていたと思う。この画像かもしれない。
あとなぜか別の部屋には分解されかけのハモンドオルガンがあり、ズラリ並んだトーンホイールを見て「ほほぅー」と感心した覚えがある。ご本人も数回お見かけしたと思う。
2012年11月24日
2014年1月追記
2013年末に大瀧さんが亡くなられたとの新聞記事を読み、たいへん驚きました。
福生の仙人としていつまでも活躍されるであろうと思いこんでおりましたが。。。合掌。

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