2011年2月アーカイブ

古い写真アルバムを見直していたらこんなものも。

レーダーマンアーム・ヘッド電飾製作中の画像である。
ツアーで持ち歩けるようトランクに一式収まるようにした。
前にも書いたがアームは他の方が作られたもので、楽器のパーツやばねなどが組み合わされ取り付けられている。
1枚目の画像、アームの奥にふたを開けたコントロールボックスが写っている。画像クリックで拡大。

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武道館でのオペレーションは、舞台背面の電飾ブロックを模したLEDモニタでパターンを確認していてCRT画面上には描画していなかった。CRTに描画したことはなかったかなと考えていたら、CRT画面をポラロイド(SX-70)で撮影したプリントが沢山出てきた。
まずCRT上でパターンが点滅するようなソフトを組んで、次にパターンをI/Oポートに出力するように変更したのかもしれない。同時にCRTでパターンのイメージをプレゼンしていたようだ。

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このブログのネタになるかと思い古い写真アルバム類を見直していたら、思いもよらないものがいくつか出てきた。

まずは1980年YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートの進行表である。

これは以前載せたこの画像のキーボード左に置かれた紙そのものだと思う。
やはり12月27日だけアンコール以降の曲目が異なっている。
ただ以前書いた「COSMIC SURFIN」が12月27日だけという私の記憶は間違っていて、全日演奏されていたことが分かる。コンサートのリハーサル以降初日前に電飾パターンを手直ししたのか12月27日だけ別バージョンとしたのか覚えていない。

12月24~26日用の進行表に「マイクロコンポーザー?」と書きこまれている箇所があるが、これらの曲を松武さんからタイミング信号をもらって同期させようとしたのかもしれない。下のほうに松武さんの連絡先が記入されている。私の打ち合わせした記憶はこの時のものかもしれないが、コンサート直前(リハーサル時?)では同期できなかったのも当然だろう(笑)。画像クリックで拡大。

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1995年のクリスマスシーズンに志摩スペイン村へ遊びに行ったことがある。

私は担当しなかったが勤務先が仕事で関係していた。"ドンキーズシェリー"に出てくる巨大ロバの目からレーザーを出す仕掛けである。オリジナリティという意味ではこのアトラクションはかなりきていた(笑)と思う。

タイトルにあるのは"ミュージカルサーカス"のことである。乗ってみて「こりゃまるで万博のパビリオンみたいだなぁ」と思った。円形の客席に案内されるのだが、これがまんま60人乗りのライドなのだ。最初の円形シアターの中を回転しながら見終わると客席全体がシアターの地下?まで下降し平行移動し上昇すると次のシアターの中にいる。。。という仕掛けで計4つのシアター内を移動するのである(動画)。

このやりすぎとも思える異様に大掛かりな装置に感心した。客席が上下してシアターに入ったり回転したりってまるで大阪万博へのオマージュ。東芝IHI館しかり虹の塔しかり(ちょっと違うけど)三井グループ館しかり。

このアトラクションは現在は別なものになっている。シアター内の人形たちのメカや何といってもあの客席の移動装置のメンテナンスは大変だったのではないだろうか。


である。私は計2日間見た。1日は中学の修学旅行でもう一日は父親と行った。

修学旅行では数人のグループに分かれて会場内を見て回ったのだが、偶然その日は会場に乗り入れている私鉄がストで止まり会場はとてもすいていた。「まぼろし万国博覧会」の年表を見ると「4月30日大手私鉄のストライキの影響で会場もがら空き」(注)とある。

行く前にグループでどのパビリオンを見て回るか計画を立てたのだが、予定のパビリオンは午前中で全部見終わってしまったほどだった。三井グループ館でコンパニオンに「今日来られたお客さんはラッキーです」と言われたのを覚えている。

もう一日と合わせて私が見たのを覚えているのは、テーマ館三菱未来館虹の塔(専売公社館)、鉄鋼館コダック館リコー館エキスポタワー、ラテナマジカ劇場、ドイツ館せんい館電力館水上シアター、三井グループ館、日本庭園といったところ。あと小さなパビリオンもいくつか覗いたと思う。以下の画像は修学旅行の時にオリンパスペンで撮影したもの。会場内はすいていたとはいえモノレール車内はそこそこ混んでいる。鋼館では音響シアター現代音楽に乗せてレーザーが飛び、ドイツ館でもシュトックハウゼンが流れていた。三菱未来館では未来の技術の一つとして「ジェット機からミサイルを発射して台風を消滅させる技術」なるものを紹介していたが。。。それって「ストームライダー」じゃないか(笑)。

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むちゃくちゃ面白い、というのが当時の私の印象である。もしこれが高校の修学旅行だったらもっと斜に構えていただろうし、もっと小さかったら理解できなかったろう。万博は私に大きな影響を与え、大学で映画学科(映像コース)を選ばせた。もし修学旅行の日が普通に混んでいてろくにパビリオンを見られなかったらどうなっていただろう。。。

(注)私が行ったのが4月30日か資料を探していたら修学旅行の集合写真が出てきた。万博会場前でとった写真には日付が無いが、びわ湖大橋・平安神宮・清水寺で撮った写真には5月1日と入っている。やはり4月30日だったのだ。
また、中学の卒業アルバムを見たら最後の方にニュース社が作った万博のページが4ページあり、見開きでオープン前と思われる会場の空撮画像があったので載せておく。クリックで拡大(サイズ注意1400*1000)。





修学旅行EXPO70.jpg
EXPO70.JPG

ハウステンボス関連画像を探してアルバムを開いていたら懐かしい画像が出てきた。
まず博多-ハウステンボス間を結んでいたジェットフォイル"ビートル"である。博多からハウステンボスまで一度乗船したことがある。1994年に航路が廃止となった。画像クリックで拡大。

ビートル_1.jpg
ビートル_2.jpg












ビートル_3.jpg
ビートル_card.jpg




















次はハウステンボス-オランダ村間を結んでいた"ワーペンファンホールン"。"アメリア"(現在の姿)が1993年に登場してからしばらくは2隻とも就航していた。オープンエアの2階席が爽快だった。2001年に関門汽船に買い取られ門司港に係留され船上レストランとなっている。現在も無事に営業しているようだ。
右の画像にはハウステンボス港に入港しようとしている"ワーペンファンホールン"と"ビートル"が写っている。1992年、ハウステンボスオープンから2年間(2年以下?)しか見られなかった風景である。

72-ワーペンファンホールン.jpg
ビートル&ワーペンファンホールン.jpg












最後にオランダ村"プリンス・ウィレム"の後姿。2003年10月21日オランダ村を離れオランダのデンヘルダー港に係留中2009年7月30日火災で焼失した。こちらのブログでは再建計画にふれているがどうなっているのだろう。

79-プリンスウィレム.jpg



1995年にURリバーシティ21新川に引っ越した。
部屋タイプ別の申し込みで抽選上位者から希望する階が選べた。私は6位くらいで「なるべく上の階」を選んだところ、最上階35階に住みことになった。

1998年、眺望を何か活かせないかと考えライブカメラサイトを作ることにした。このころはデジタルカメラもまだライブカメラに使えそうなものはなく、ビデオキャプチャーした画像を1時間おきにアップロードすることにした。ADSL登場以前でアナログ回線用モデムを使っていたと思う。

180度の眺望を生かすためなるべく解像度の高いパノラマライブカメラができないか考えた。ビデオカメラの広角化は全体の解像度が落ちることからあきらめて、キヤノンのVC-C3を使うことにした。このカメラはPCからリモートでパン・チルト・ズームなどが行えたので、パンしながら3方向を撮影しつなげてパノラマ化することにした。
また、なるべく高解像度でキャプチャーするためPLAY社製のSNAPPYというパラレルポート接続のキャプチャーユニットを使用した。SNAPPYは複数フィールドを取り込んで演算、高解像度化することができた。ただインターレス補正まではできなかったので早く動く雲などは走査線ずれが発生した。

ホームページのパノラマ画像夜景はこちら) は、銀塩一眼レフで撮影したものをコダックのPhotoCD化サービスでデジタル化してパノラマ作成ソフトで合成したものである。このJPGは1998年1月のタイムスタンプになっており、昼間の画像の右端近くに1997年末に破綻した山一証券ビルの看板が写っている。

1998年の春ころにはスタートしたと思うがギャラリーとして残っているのは1998年9月からで、パン方式のパノラマライブが始まったのは1999年の5月からである。VC-C3は最初から使っていたが3方向パン撮影は後で思いついたのかもしれない。そしてそれ用の防雨ケースを作ったりPCソフトを変更したりするのに時間がかかっていたのだろう。

このライブカメラは2000年8月に近くのURリバーシティ21イーストタワーズIIへの引っ越しに伴い終了することになり、次の「大川端スカイライン」へ続いていくことになる。
今回は番外編。
ハウステンボスではいつも園内のホテルに泊まっていたのだが、1996年、近くの西海橋コラソンホテルに滞在初日に1泊したことがある。
ホテルの敷地の隅に斜面を上り下りする小型モノレールがあった。下は船着き場で当時はハウステンボス行きの船が出ており(1日1,2回だったと思う)その乗船客用らしく、スイッチを押せばすぐ動きそうに見えた。モノレール横の階段を下りていくと船着き場の先にすでに閉鎖された水族館らしき建物があった。
この建物について知りたくて過去何回か検索したのだがほとんど何もヒットしなかった。ところが最近検索するといくつかの廃墟ページに行きつくようになっている。 (1)(2)(3)(4)
海に面していることもあり人にも荒らされたのか建物はずいぶん荒れてしまっているようだ。
モノレールも完全に朽ち果てている。ホテルは健在なので放置しておいて大丈夫なのかと思ったがゴンドラは下の位置に停まっているようだ。ホテルからは目に入らないのだろう。

以上の書き込みをした後、グーグルマップとストリートビューを見てみたところホテル側モノレール乗り場の跡と思える場所があった。中央付近、2つ並んだ茶色い構造物である。これが下の画像のゴンドラが停まっている場所のようだ。航空写真でもこの位置で合っているように思える。左上が水族館跡、右下方向がコラソンホテルである。
ストリートビューの画像が新しくなっていたため2011.6.29に訂正。

以下は1996年当時の画像である。画像クリックで拡大。

44-コラソンホテルゴンドラ.jpg
47-コラソンホテルゴンドラ2.jpg











50-西海橋水族館1.jpg
53-西海橋水族館2.jpg












2月14日 追記
上記のモノレールだがこちらのページなどを見ると、レールや車体下部のカバー形状から嘉穂製作所製のスロープカーだと思われる。

サウンドギャラクシーのショープログラミングは1992年2月オープン前の現地で行われた。オレンジ広場にプログラム用のコンテナハウスが置かれ、スタッフがプログラミング用PCやコンソールを持ち込んだ。
なにしろ暗くならないと始められないので、夜7時から夜中2~3時ころまで5,6日連続で行われたと思う。夜中は寒くて地面に引いたマルチケーブルが霜でカチカチになっていたのを思い出す。終わってから佐世保のホテルに戻り午後まで寝て、夕方またハウステンボスにやってくる生活だった。部屋の清掃・ベッドメイクで起こされるのがかなわんとタオルだけ変えてくれればいいから、などとホテルに掛け合ったような気がする。
照明・レーザー・街の電飾など光の演出は吉井澄雄さん。照明界では当時すでに大御所だが、大変気さくで分りやすく指示を出していただいた。現在もご活躍中でいらっしゃるようだ。
あまり知られていないと思うがサウンドギャラクシーには曲が2つあった。ほとんどの方の記憶に残っているのをA曲とすると、知られていないB曲があったのだ。A曲よりも現代的な感じだったと思う。ショープログラムはそれぞれの曲用にちゃんと2つ作られた。ハウステンボスオープン当時はA,B日替わりでショーが行われていたか、そもそもBはお蔵入りだったか記憶が無い。
プログラミング最終日に冨田勲さんが差し入れの日本酒を抱えて現場に見えられた。神近義邦氏が書かれて1994年に出版された「ハウステンボスの挑戦」ISBN4-06-206407-3の164~165ページに以下のような記述がある。
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平成四年の二月、港町ではサウンドギャラクシーのシミュレーションが繰り返されていた。夜十時半、凍てつくような寒さの中で、吉田直哉さんと冨田勲さん、それに光のスペシャリスト吉井澄雄さんが日本酒の一升瓶から茶碗酒をあおりながら仕事を続けられているのをよくお見かけした。
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なんだかこれだと毎日飲んでいたみたいだが(笑)最終日、仕事終わりで乾杯しただけである。
サウンドギャラクシーはなんと2003年まで続くことになった。あの規模のライトショーが国内で連日10年以上続いたのは珍しいことだと思う。ただ後年はメンテナンスが十分といえず、スタート時の状態が100%再現されているとは言えなかったのが惜しまれる。
以下はサウンドギャラクシーのショープログラミング中にハウステンボス内で撮った画像である。パレードのリハーサルが行われたり、まだ工事車両がたくさんいて工事中の個所があることが分かる。

35-ハウステンボス1992_2_1.jpg













38-ハウステンボス1992_2_2.jpg













41-ハウステンボス1992_2_3.jpg













私自身ハウステンボスのファンでもあり7,8回訪れたが2004年以降行っていない。お気に入りのアトラクションだったクリスタルドリーム大航海体験館が無くなってしまったこと、部屋からの眺めと海に面した明るいレストランが好きだったホテルデンハーグが閉まっているのが残念。一時期行われていた大村湾でのパラセーリングを体験できたのが良い思い出である(ルフティは強風で乗り損なった(笑))。
サウンドギャラクシーで使用されたサーチライトはロボサーチで、シャッターによるON/OFF、パン・チルトの位置制御、フィルタースクロールによる色変えなどがDMXでコントロール可能だった。
このサーチライトはハウステンボス内だけでなく、対岸にも確か4台ほど設置されていた。
地図から推測すると西泊ノ鼻だったと思われる。
このコントロールは専用回線とモデムで行われていたと記憶している。やや分かりにくいが前回リンクした画像のサウンドギャラクシー1と2の中央付近にある2つの光源の左側がそれである。ショーの行われる日は(つまりほとんど毎日だが)スタッフが行き防雨カバーの付け外しやメンテナンスを行っていたはずだ。
私が持っていたサウンドギャラクシーの画像が出てきた。リハーサル時のものだとおもわれる。
画像クリックで拡大。

25-サウンドギャラクシー1.jpg



















29-サウンドギャラクシー2.jpg



















32-サウンドギャラクシー3.jpg



















1992年3月にオープンするハウステンボス夜のライトショー「サウンドギャラクシー」のレーザーを勤務先が担当することになり、私は制御系のハードとソフトを製作することになった。
PC-9801を4台使い、1台をマスターコントローラーとしてコントロールルームに、残り3台をスレーブコントローラーとして3か所のレーザー光学台に配置した。各コントローラー間はRS-485ラインと、安全のために独立したレーザー光シャッター用ラインで結んだ。
マスターコントローラーはSMPTEタイムコード信号に同期してタイムライン上の制御データをスレーブコントローラーに送り、スレーブコントローラーはそれに従いXYスキャナーにアナログ図形データを出力した。マスター、スレーブともMS-DOS上のTurbo Pascalでアプリケーションを作成した。CP/M時代にPascalMT+やCP/M版Turbo Pascalを利用していて慣れていたし開発環境が使いやすかったからである。ちなみにPascalMT+はROM,RAM領域を定義できたのでZ80や64180組み込み用にも使えて便利だった。
レーザーはアルゴンレーザーを使用し、複数台の出力を合成することによりセンターは出力20W、左右は出力8Wだったと思う。
コントロールルームはオレンジ広場ビッケンビッケンの2階だった。ハウステンボスのページを見たらビッケンビッケンは健在である(笑)。マルチトラックテープレコーダー2台や音響・照明・レーザー各制御用のラックで室内はぎっしり埋まっていた。今なら当然SSDやSDHCカードなんかに入れたマルチトラック音源を出力させるところだろうが、当時はテープを回していたのだ。

月刊ロッキンf 1982年3月号でLMD-649が紹介されている。別冊宝島と一緒に出てきたもの。
これがLMD-649に関して最も詳しく正確に書かれた記事だと思う。サムネイル画像クリックで拡大。

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この雑誌記事を読み返してみて思い出したことがあった。先日LMD-649についてここに書いた時、A/D,D/Aは東芝研究所製でコントロールロジックボードは私の自作だったことは覚えていたのだが、メモリボードはどうしたのか忘れていた。RAMボードはダイナミックRAMの載った市販のものだったのだ。確かアドテックシステムサイエンス製で、この頃メモリボードのメーカーとして有名だったと思う。

バス規格はどうしていたのだろう。バス配線はバス基板ではなく手配線だったように記憶している。
A/D,D/Aは12bitだからデータバスは最低12bitはあったはず。アドレスバスはメモリ容量64kwordということになるので1024*64-1=65535=FFFFH=16bitとなる。
RAMボードは当時のことを考えると16bit*32k*2枚ではなく8bit*64k*2枚だった可能性が高い。
バスが手配線だからアドレスバスは共通、データバスをボード1と2で下位8bitと上位4bitに分岐させれば解決である。

YMO 武道館コンサート電飾に関連して雑誌取材を受けたことがあった。
その雑誌が出てきた。別冊宝島27 機械オンチに捧げるパソコン・ブック 1982年1月11日発行。
サムネイル画像クリックで拡大。

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