コンピューターの最近のブログ記事

NIBL BASIC ROMを買ったのは東急ハンズだった! 1978 の中で書いた自作CRTターミナルに使用した基板の資料が出てきた。
購入した基板と一緒に送られてきた回路図その他である。まず、コピーが青焼き。

大越電機広告.jpg
これはトラ技の広告原稿そのものと思われる。
左側の22,23,24番3枚の基板を購入した。
大越電機工業製作所のウェブページ
両面基板作成可能だがスルーホール無しというのはこの当時と同じ。ガーバーデータ受付なし、短期間作成も不可と我が道を行ってます。
あれ?更新日2008年6月1日で「現在、受注を中止しております」だって?


22.jpg
22ptn2.jpg
(22)CRTディスプレーキャラクター用基板









23.jpg
23ptn.jpg
(23)CRTディスプレーコントロール用基板








24.jpg
connect.jpg
(24)UART・エンコーダー・フルキー用基板 および
22,23,24基板間接続図






keyptn.jpg
これが変な並びのキーボード(当時書いた配置図)。
うーん(笑)。

基板だけ買ってよく動いたものである。
確かパターン修正しないと動かなかった記憶もあるし。。。


LMD-649に使用したメモリボードの資料が出てきた。画像クリックで拡大。

まず以前のブログでメーカー名を間違っており、株式会社テックメイト製だった。

テックメイトMD-64.jpg
テックメイト価格表.jpg
右が価格表。今から見るとどうしてボード単体やキットで売っているのか不思議に思うかもしれないが、当時はおカネのないユーザー向けに出す必要があったのだろう。


価格表の日付は1978年なので私が購入したときは価格が下がっていたかもしれないが、メモリの値段が凄い。ビット構成をよく見て欲しい。
キロバイトの時代である。


上左のパンフレットにも書いてあるが、外から見るとスタティックRAMボードと同様に使えるのがメリット。
このボードにDRAMを64KB積み、2枚(8bit+4bit)使って12bitA/D,D/Aに対応させ、パンフレット左の図にある8080システムの接続方法で使用していた。このLMD-649を正面から見た画像のケージ一番右寄りの2枚である。
このパンフレットの住所に直接買いに行った記憶があるが、併設されたショップはガラスショーケースが1つ2つある小さなものだった。

他にもメモリボードのパンフレットがあったので載せておく。

テックメイトMC-16_1.jpg
テックメイトMC-16_2.jpg
テックメイトMS-16.jpg
















上中央のパンフレットの中の「市販のマイコンキットの中には、アドレスのデコーディングが不完全なため、不使用空間のほとんどないものがあります。」の一節が当時の状況を偲ばせる。
メモリ増設を考慮せず、というよりICチップ数を減らして全体を安く(簡素化)するため簡易なデコードで済ませていたのだ。

テックメイトMR-16_1.jpg
テックメイトMR-16_2.jpg
左のPROMライタ付きRAM/ROMボードは、レーザーディスプレーの仕事で使っていた。
当時単体のPROMライタは値段が高く、ボード単体ソフトいらずスイッチひとつでPROMに書き込めるので便利だった。
なんとこちらのサイトでこのボードのマニュアルボード画像(スクロールすると出てくる)が公開されている。
物持ちの良い方があちらこちらにいらっしゃるのには感心・感謝である。


テックメイト8308ADP.jpg
こちらは上で紹介したボード画像にも出てくる。
本来ボードに載せるべきRAM手に入りづらいため、半分の容量のRAMを2個乗せて代用させるアダプター付きRAMである。

今日、パソコン自作力検定を受けてみた。

パソコンスペック記憶力検定だった。パソコンショップパーツ売り場店員採用試験と言えば分かりやすいだろうか?私自身は何とか70点位はいけたかなといったところ。

確かにスペック知識も自作の大切な側面だと思うが、全くパソコンを自作したことのない人間でも今日の問題なら暗記で満点近い点数が取れるだろう。
記憶力だけではまずいと出題者が思ったか、自作にもスペックにも関係ない小ネタ問題があったのも?だった。あと、正解のない問題が1問あったような気がする。

何の役に立つのか分からない第1回検定なのだからもう少し楽しい問題だったら良かったのだが(それを言ってしまうとペーパーテストでは無理かもしれない)。

取材の方が数名いらしていたようなのでどうだったか明らかになると思うが、試験会場をざっと見渡したところでは女性の方はお見かけしなかった。ちょびっと悲しい。

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・試験問題の再現 
方法の如何を問わず再現、試験問題の全部もしくは一部またはそれらの概要を、インターネット・テレビ・ラジオ・メール・文書・講義の他の手段を用いて不特定または多数の者が閲覧・視聴可能な状態に置くことを禁止します。
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って主催者は言っているので以上なるべく曖昧に(笑)。

試験の開始時、パ自検公式サポーター嬢にご挨拶(MC)いただいたのだが、会場の雰囲気との落差ぶりに受験者全員がコケた(嘘)。彼女が公式サポーターコスチュームの印象とは違いかなりな着エロ系なことがアキバらしいとも言える。
今回は少し恥ずかしい(笑)過去の出来事である。

月刊ログインで1984年に数ヶ月にわたってアダルトソフトの特集が組まれたことがあり、そのイベントとしてアダルトソフトウェアコンテストが行われ1984年10月号で結果発表された。

そこで1位を取ってしまった。賞金10万円也。

当時PC-9801に接続できるビデオキャプチャー装置(ボードではなく3Uラックマウントケースくらいのサイズのもの)とビデオカメラ(白黒・SONY製)を持っていた。
それで神田で売っていたグレーゾーンのグラビア誌を取り込み、20枚くらいの画像をつなげて大きな仮想スクリーンとし画面上で自由にスクロールして好きな画像が見られるような、今で言えば画像ビューワーソフトを作った。TurboPascalで書いたかBASICだったか覚えていない。どの98でも動作するようにBASICで作成したと思う。

ソフトウェアのタイトルは"Windows"。翌1985年にアメリカで発売されることになるWindows1.0を意識してそういう名前にしたような記憶もある。

まぁ勝手に取り込んだ画像だったので、発表時にログインに掲載するのだったらグラビア誌の発行元に確認しておいて欲しいと編集部に頼んでおいたのだが、連絡がつかないとかで何となくうやむやに終わったように思う。まぁ、階調も解像度も良くなかったということもあっただろう。
ずいぶん時間が経ってしまったが前回のブログに追加。

電球数分のリレーを駆動したことは前回書いたが、当時でももっとスマートな方法はあったと思う。
しかし電飾装置がこのコンサート専用で仕込み日まで存在しないため、電飾屋さんとリレーの仕様さえ決めておけば駆動系を製作できるし単純な方法のほうがリスクも少なく、何より責任分担が明確にできる(リレーの駆動まではこちらの責任、その先は電飾屋さんの責任)ためリレーを並べることになった。

仕込み日、早速電飾装置とPC側とを接続して点灯チェックしたがリレーが動かない。
確認したところ駆動回路中の抵抗値を私が間違えていた。他のスタッフにアキバまで走ってもらいしばし中断(武道館でよかった、近くて)。なかなか点灯しないことにしびれを切らした電飾屋さんに「何待ちですか?!」と険しい顔で問われ、事情を話して平謝り。

やがて抵抗が届き、集合抵抗をICソケットに挿していたので交換は素早く出来た。
今度はリレーが威勢良く?ジャッジャッと動いて無事点灯。ステージ裏でオペレーションしていては見られないので交代してもらいステージ正面で確認したが、その時次々繰り出される電飾パターンを観てポカンとしていた電飾屋さんの顔を覚えている(笑)。点灯したことで険悪なムードも消え、その後電飾屋さんには大変協力していただけた。

電飾が白熱電球であることがよく分かるシーンがある。Citizens of Scienceのバーグラフ風パターンで上の方が暗いことに気付かれると思うが、これは点灯時間が短すぎて100%光っていないためである。
また赤い電球も仕込まれていてRydeenなどで点滅しており、Mapsで全点灯している。が、実は回路数を減らすため赤はズルしていて、全点灯の1回路と確か10~20個程度の散らばった個々の赤の回路しかなく全ての電球を個々にON/OFFすることは出来なかった。なので赤の点灯しているシーンを全部よーく観ると、個々に点灯している赤の位置は決まっていることが分かる(かもしれない)。

この翌年、私はLMD-649の製作でまたYMOに関わらさせていただくことになる。
LMD-649の製作 1981」の最後にふれたが、Mさんがファンハウスに移られたあと製作されたのがLINDAシステムである。私はソフトウェアの作成でお手伝いすることになった。
どうしてLINDAという名前だったのかシステム構成がどうなっていたのか忘れていたのだが、雑誌記事が出てきた。サウンド&レコーディング・マガジン1984年8月号である。

LINDA1small.jpg
LINDA2small.jpg






















LINN DRUMをプレーヤーとして使用するのでLINDAだったのだ。
PC-9801からROMエミュレーターを介してリンドラムのROMコネクタに接続し、リンドラムから見るとROMだが実態はPC-9801で録音・加工・編集出来るRAMとなっている。

PC-9801側のA/D,D/Aは8ビット折れ線。リンドラムも8ビット折れ線だったのだろうか?
調べてみると初期型LM-1は8ビット、後期型LM-2が12ビットとなっていて、この雑誌画像はLM-2のように見える。とすると4ビットシフトして上位8ビットのみ使用していたのかもしれない。

ソフトウェアはPC-9801MS-DOS上のTurboPascalで開発したと思う。
エディタ環境がかなりカスタマイズでき使いやすかった。この後PC-9801のCRTのキャラクターを小さくして文字数、行数を増やすソフトウェアが出たのだが、簡単にカスタマイズ可能だった。

今回雑誌を発掘していたらボーランドから送られてきたTurboPascal V2.0発売のチラシとメールが出てきた。価格は$49.95となっており当時非常に安価だったことを思い出した。

borlandmailsmall.JPG
turbopascal2small.JPG

1月の「初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978」で以下のように書いた。
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このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
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このターミナルの写真が出てきた。 以下画像クリックで拡大。
niblterminal.jpg
うしてわざわざ電卓キーなんかばらしてキーボードを作るのか今考えれば不思議だが、当時、コンピューター用キーボード(PCはまだ存在しない)は高価だったしPS2コネクタみたいな統一規格もなかったからである。
それによく見るとこのキーボード、並びがすごく変である。アルファベットは問題ないが、カナがキーボード最上段左からアイウエオカキクケ..と並んでいて、じゃ2段目もそうやって続いているのかというとバラバラだ。
電卓キーに合わせて自分でも少し入れ替えたかもしれないけど、このターミナル基板はキーボードマトリクスでキーを読み込んでいたはずだから、このターミナル基板の設計がそうなっていたのだろう。
いずれにせよNIBL BASICではカナは使えなかったので問題なかったのだが(笑)。

さてそのNIBL BASIC ROMを買った時の領収書が出てきた。

hands.jpgな、なんと東急ハンズで買っていた。
1978年11月26日。
てっきりアキバのロビン電子とかで買ったものとばかり思っていた。
なんでまたハンズで買ったのだろう。
すっかり忘れているが無理やりこじつけてみると。。。
考えてみれば当時個人が買えるような価格のパソコンというものは存在せず、アマチュアが買えるのはCPUメーカーの出していた自社CPUチップの売り込み用評価用キット類(あるいは自作)しかなかった時代。
まぁ、いうなればアマチュアにとってはDIYホビーだったわけで、となれば東急ハンズにマイコンコーナーがあっても不思議ではなかったかな?と。
いまなら大人の科学マガジンといったところか。
しかしTinyBASIC入りのROMが1個¥24,000、よく買ったなぁ(笑)。

忘れたころの更新です(笑)。

自宅でソニーのVGF-WA1を使っている。単体で無線LANに接続してインターネットラジオを聴いたり、PC上の音楽を再生したり、PCの外部スピーカとして使用できて音質も良い。ところが無線ルーター(プラネックスMZK-WNH)が端の部屋にあるため、離れた場所では無線LANの感度が落ちてしまう。そこで無線LANリピーターを作ってみることにした。

まずLa FoneraFreewlanを入れてみた。出来るはずなのだが色々やっても無線LANリピーターになってくれない。そこでバッファローWHR-G54Sがあったことを思い出し、こことかを参考にしてDD-WRTを入れてみた。

上記の記事にあるようにTFTPで転送したのだがタイミングがなかなか合わなかった。何回かやっているうちにやっと引っ掛かりStable版をロード出来たのだが。。。管理画面が出てくれない。192.168.1.1でも反応せず壊したかと思ったが最新のBeta版を入れ直し動作するようになった。
注意しなくてはならないのは、リセットして初期状態に戻したオリジナルWHR-G54Sのアドレスは192.168.11.1になっているが、DD-WRTを入れた後のアドレスは192.168.1.1になっていることである。

DD-WRTで見事無線LANリピーターとして動作したが、WHR-G54Sに無線LAN接続したVGF-WA1は無線ルーターMZK-WNHに接続したPCからは見えない。インターネットラジオは問題ないのだがPCの外部スピーカーとしては使えない。設定をいじってみたが自分には解決できなかった。

そこで力技でLa FoneraとWHR-G54Sを両方使って同じセグメント内にいられる無線LANリピーター(ブリッジ?)にしてみた。WHR-G54Sをクライアントブリッジとして無線->有線変換し、La Foneraで有線->無線Hubにする。これで思った通り、無線ルーターMZK-WNHに有線・無線LAN接続したPCとLa Foneraに無線LAN接続した機器が互いに見えるようになった。

これで家中どこでもVGF-WA1で音楽が聴けるようになった。ちなみにお気に入りのインターネットラジオはSwissGrooveとか昨日見つけたBollywood & Beyond - Radio NRI 24/7とか。

以下は接続図と外観、ファームウェアの設定状態。クリックで拡大。

無線LANリピーター.jpg
UNI_0328.JPGのサムネール画像
LaFoneraPrivateSettingfs.jpg
LaFoneraInternetConnectionSettings.jpg
LaFoneraAdvancedNetworkSettings.jpg

























G54SWirelessSetup.jpg
G54SWirelessInterface.jpg
G54SWirelessSecurity.jpg

1989年、福岡市にオープンするホテル・イル・パラッツォ地下のディスコ「バルナ・クロッシング」ダンスフロア内ムービングミラーシステムの制御系を担当することになった。
赤・青・緑の反射光を持つ40cm角くらいのダイクロイックミラーを9*9枚並べてそれそれのミラーにXY角度制御するサーボモーターが取り付けられている。壁面に取り付けられたこれらのミラーに反対側の壁面から高輝度放電ランプ(HID)で光を当て、ミラー面の動きと動くミラーの反射光で演出効果を上げるものである。
このページの画像左側上から7,8枚目の「ダンスフロア」に写っている。上がミラーを正面から見たもので、下がランプの投影部とミラーからの反射。
まず問題になったのは9*9*2(XY)=162chのアナログ信号をコントローラーPC(PC-9801)からミラーまでどうやって引くかであった。しかもコントローラーからミラーまでは数十メートルある。そこで98の拡張スロットに挿したカノープスのZ80ボードにD/Aコンバーターなどの拡張回路を付加してAMX出力用のソフトウェアをボード上で走らせておき、98からはデータを投げるだけでAMX出力できるようにした。ミラー側は市販のAMXデコーダーで受けて各サーボモーターに分配した。AMXはDMXの前の照明用多チャンネル信号伝送用の規格で、192chまでのアナログ電圧を時分割で送れた。
PC上ではミラーの動きのパターンを複数作成して再生しながら、複数のトラックボールでスピードやミラーの動きにバリエーションを与えられるアプリケーションソフトを作成し走らせた。このソフトでミラー面を水面のように波打たせたり、反射光が円形になるような動きをミラー間に遅延を与えて動かしたりすることができた。
まさにバブル期だけあってバルナ・クロッシングの内装は隅から隅までデザインされ、目に入るほとんどのものがデザインされた特注品だった。なにしろダンスフロアの床が平面でなかった(笑)。地中に埋まった巨大な卵の一部が顔をのぞかせているように床が盛り上がっていたのである。

東芝EMIのエンジニアMさんの依頼で、サンプラーLMD-649のコントロールロジックの設計と基板・本体の製作をすることになった。A/D,D/A基板はMさんが東芝の研究所に依頼して製作したものと記憶している。さすが研究所と感じたのはその基板の仕上がりで、手作りながらA/D,D/A周りがしっかり金属板を半田付けした箱でシールドされていたことである。その基板とバスラインに合わせてロジック基板を設計・作成した。
録音はメモリアドレス0からスタートしてメモリ終わりで終了、再生は16進デジタルスイッチで開始アドレスと終了アドレスを設定しサンプリング音を聞きながら調整した。と思っていたが画像を見るともうひとつデジタルスイッチが付いている。これは使ってたっけ?前のアクリルカバーのついたこちらの画像だと隠れているように見える。

ケースはアキバで売っていたPC用ケースである。CRT・キーボード一体型のコンソールやPCを収めるもので確か8or9インチCRT用。
前出のOMIYAGEの照明卓ケースと(ケース下部が色違いだが)同じものだと思う。
ちなみにこの卓はこのページのコメント1に書かれているもののようで、当時先進的なCPU制御のメモリ卓らしい。

このケースの上蓋だけ大きくして18インチくらいまでのCRTを入れられるものもあった。この後そのケースを自分で買い、CRT出力回路まで載ったCP/M用Z80CPUオールインワンボードを個人輸入し組み立て(キットで買ったと思う)アキバで買った裸のCRTユニットを組み込み、ディスクは中古の巨大なフルハイト8インチフロッピィディスクドライブを2台買ってきて外部に接続しCP/Mマシンを自作したりした。

この後ファンハウスに移られたMさんはLINDAというサンプリングシステムを開発され、私はPC-9801上での波形編集ソフト作成のお手伝いをすることになる。
The Beeでの休みなしのアルバイトをようやく他人に引き継いたあと、私は前出Yさんの設立した会社に入った。
1980年、Yさんの知り合いの照明会社がYMOの武道館コンサートを担当することになり、ステージ電飾の仕事が私のところへやって来た。
PC-8001をコントローラとして使うことにし、拡張ボックスユニバーサルボードにインターフェース回路を組み、曲に合わせてプランを考えBASICで電飾プログラミングをし、コンサート本番でオペレーションをした(以上を1人で担当)。今ならメディアサーバーLEDパネルでも制御するところだが、当時は普通にパネル数分電球が入っていて1つ1つリレーでON/OFFしていた。100個以上のリレーをI\Oポートのビットに割り当てトランジスタアレーで駆動したのである。
OMIYAGE22ページ左下に写っているのが武道館での私の仕事場。
PC-8001本体からフラットケーブルで後ろの拡張ボックスに接続されているのがわかる。その上にビクターの9インチグリーンモニタがあり、その上の箱はLEDを実際のパネル数分並べて作った電飾モニター。何しろ本番まで実物のパネルが存在しないのでこれでシミュレーションして電飾パターンを作成したのだ。PC-8001本体から何かツイストケーブルが引き出されているがこれは何だったかな。強制出力OFFスイッチだったかもしれない。
PC-8001の右に少し見えているのは当時まだ高価だった5.25インチフロッピィドライブ。これは確か工人舎の2ドライブ入りのやつで¥248,000位だった。フロッピィのモーターはダイレクトドライブならぬベルトドライブである。この頃松武さんの使っていたシーケンサーはカセットにデータをセーブしていたので、リハである曲を演奏することになるとデータロード時間が結構かかった。こっちはフロッピィだったので楽々である(笑)。本番ではシーケンサーを2台並べて次の曲データをロードしつつ演奏していたと思う。
この仕事場の場所はどこだったかというとステージ矢野顕子さんのすぐ後ろ、見上げると壁と床のすきまからアッコちゃんの足首が見えるのだった。
電飾パターンはファンクションキーやスペースキーでタイミングを合わせたりパターンを切り替えられるようになっていて、PA屋さんに引いてもらったモニタースピーカーを聞きながらマニュアルでオペレーションしていた。松武さんから何か信号をもらって同期させようかという話もありちょっと打ち合わせさせていただいた記憶もあるが、どうインターフェースをとるかなど解決するのに時間が無く同期は実現しなかった。
ちなみに私がコントロールしていたのは背後の壁面だけで、床面は(本業の)電飾屋さんが担当していた。インカムで切り替えタイミングを出しながらオペレーションしていたので壁と床の電飾は少しずれている。
今ビデオで残っているのはフジカセットの招待日のものだが、この日だけ数曲曲目が異なっていた。
Cosmic Surfin'もこの日しか演奏しなかったと思う。というのもこの日この曲を演奏することになって前日の夜遅くまで電飾パターンを作成した記憶があるからだ。
打ち合わせで使った舞台図面のコピー(1)(2)。この図だと壁面と床面はなめらかにつながっているが実際にはつながっておらず、床面の奥行きもこの図の半分程度である。
田町駅の近くのアルファのスタジオでリハーサルを見たり、細野さんに来てもらって電飾モニタ上でパターンを再生して意見をいただいたりしたのが懐かしい。
SC/MP II マイコンを自作した年の11月大学祭があり、私は実行委員の一人として参加した。
イベントの一つとして当時まだ珍しかったレーザーショーを大講堂で行う企画があり、たまたまその手伝いをすることになった。プロの業者さんを呼んだわけだが、そこに来たのが後に私の就職先となる当時はまだ会社になる前の主宰者Yさん。
Yさんが持ち込んだ機材はレーザー本体以外はすべて手作りだった。そんなほとんどアナログな機材の中に、唯一文字や図形をデジタルメモリからD/A出力できるものがあった。
これが私が自作したマイコンと同じように、アドレス入力とデータ入力も確か2進のトグルスイッチでデータは8ビット。再生するときはデータの開始アドレスと終了アドレスをずらずら並んだトグルスイッチで2進設定しクロックをオンすればその間をループで回ってD/A出力できた。メモリはバッテリーバックアップされていたと思う。絵を切り替えるときはどうするか、それは開始アドレスと終了アドレスの並んだトグルスイッチを同時にエイヤッと切り替えるのであった(笑)。
Yさんからそんな機材のかんたんな説明を受けて大体理解できた私が「なるほどこういじればいいんですね」などと話していると「キミ、それ分るの?」と一緒に来ていたAさんに話しかけられた。「ちょっと前にマイコンを自作したんです」と話すと「月末に六本木のディスコにレーザーを入れるんだけどバイトしない?」。いきなりスカウトである。
雑誌トランジスタ技術1977年10月号~1978年1月号に「◎マイコンピューターをつくろう SC/MPによるマイコン入門」という製作記事が掲載された。当時大学の映画学科の学生だった私はこの記事を見て作ってみたくなり、1978年初め頃ほぼ記事と同じ形で製作したのだった。アキバでパーツを買い集め、生まれて初めて多数の半田付けをどうにかこなして大きなトラブルもなく、マイコンは無事動いた。当時パソコンという言葉はまだなくて、マイクロコンピューターと「私の」をかけてマイコンと言っていたと思う。
SC/MP-II 8ビットCPUにメモリ256バイト、モニタROMもキーボードもなくアドレスとデータそれぞれ8個のトグルスイッチでプログラムを2進入力、出力表示も8個のLEDというものだった。とはいえこれをいじったおかげでコンピューターのなんたるかを直感的に理解できたと思う。ついでに2進-16進変換もそらでできるようになったし(笑)。
このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
そのあとシャープ製SM-B-80Tシリーズを買ってグラフィクスプログラミングをしたり、アメリカから通販で買ったCP/M用ボードにジャンクの8インチ(ベルトドライブ!)フロッピィドライブをつなげたり、APPLEIIコピー機(非合法!)に純正のフロッピィードライブ(カムドライブ!)をつなげたり、白黒MACを買ったり、PC-8001でプログラムしたり(順番がごちゃごちゃですね)して結局PC-9801シリーズへ収束したのだった。
話を戻して、そもそも映画学科の学生だった私がどうしてマイコンを作ろうと思ったかといえば、当時学校でスライドによるマルチディスプレーシステムをいじくっていて、これは1画面あたり2台のスライドプロジェクターを使って4画面とか8画面とかのディスプレーをするもの。1画面あたり2台あるので交互にフラッシュさせたりフェード出来たりした。この後キューブ状のCRTを積んで表示するシステムへ変わっていくわけだが、スライドも1990年くらいまでは使われていた。で、このコントローラーが紙テープを読み込んで動作するものだったのである。紙テープに動作を時間軸に沿ってパンチ穴でプログラミングしてコントローラーの紙テープリーダーにかけると、時間に沿ってプログラムを読み込みプロジェクターをコントロールする。
これをマイコンで出来ないかと思ったのがきっかけだったような気がする。きっとそういう製品もあったと思うけど。

さて、マイコンを作ったことがこのあと私の進路を決めることになろうとは。。。