1978年の最近のブログ記事

サンシャイン・レザリアムの入場券、裏は広告。以下画像クリックで拡大。
サンシャイン・レザリアム チケット1
サンシャイン・レザリアム チケット2






多分、入場者に配布されたと思われるプログラム。21cm×20cm。巻々四つ折になっている。

表紙と裏表紙。
サンシャイン・レザリアム プログラム1
サンシャイン・レザリアム プログラム 裏表紙











見開き。
サンシャイン・レザリアム プログラム 見開き











全部広げた左3面。
サンシャイン・レザリアム プログラム 三面











広告ページ表、裏。光洋は今でも有楽町ビルで営業中
サンシャイン・レザリアム プログラム 広告1
サンシャイン・レザリアム プログラム 広告2





1978年10月から、池袋サンシャインシティのプラネタリウムドームでレザリアムが公開された。
プログラムの内容は京都で上演されていたものと同じである。
こちらの8ページ目に見学記が載っている。

以下はパンフレットで2種類手元にある。10月5日公開決定!と記載されている方が公開間近に配布されたものだろうか。

サンシャイン レザリアム パンフレット1
サンシャイン レザリアム パンフレット2
















サンシャイン レザリアム パンフレット3
サンシャイン レザリアム パンフレット4

KBS レザリアムセンターは1978年3月19日に公演終了となり、同年10月から東京池袋サンシャインシティで公開されることになる。

公演終了記念として"レーザーとホログラフィー展"が開催された。
こちらに終了間際のレザリアムをレポートした記事がある。

以下は"レーザーとホログラフィー展"のパンフレット。京都のレザリアムをもう一回観に行った記憶が無いので、東京でのレーザー関連の展示会か何かで手に入れたのだろうか。

Laser_and_Holography1.jpg
Laser_and_Holography3.jpg
















Laser_and_Holography2.jpg

1月の「初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978」で以下のように書いた。
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このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
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このターミナルの写真が出てきた。 以下画像クリックで拡大。
niblterminal.jpg
うしてわざわざ電卓キーなんかばらしてキーボードを作るのか今考えれば不思議だが、当時、コンピューター用キーボード(PCはまだ存在しない)は高価だったしPS2コネクタみたいな統一規格もなかったからである。
それによく見るとこのキーボード、並びがすごく変である。アルファベットは問題ないが、カナがキーボード最上段左からアイウエオカキクケ..と並んでいて、じゃ2段目もそうやって続いているのかというとバラバラだ。
電卓キーに合わせて自分でも少し入れ替えたかもしれないけど、このターミナル基板はキーボードマトリクスでキーを読み込んでいたはずだから、このターミナル基板の設計がそうなっていたのだろう。
いずれにせよNIBL BASICではカナは使えなかったので問題なかったのだが(笑)。

さてそのNIBL BASIC ROMを買った時の領収書が出てきた。

hands.jpgな、なんと東急ハンズで買っていた。
1978年11月26日。
てっきりアキバのロビン電子とかで買ったものとばかり思っていた。
なんでまたハンズで買ったのだろう。
すっかり忘れているが無理やりこじつけてみると。。。
考えてみれば当時個人が買えるような価格のパソコンというものは存在せず、アマチュアが買えるのはCPUメーカーの出していた自社CPUチップの売り込み用評価用キット類(あるいは自作)しかなかった時代。
まぁ、いうなればアマチュアにとってはDIYホビーだったわけで、となれば東急ハンズにマイコンコーナーがあっても不思議ではなかったかな?と。
いまなら大人の科学マガジンといったところか。
しかしTinyBASIC入りのROMが1個¥24,000、よく買ったなぁ(笑)。

The Beeの(当時私は店長と思っていた)プロデューサーは岡田大貮氏、ぶれている画像だが30年ぶりに拝見しとても懐かしい。

たまに貸切イベントが開かれることがあり、今でいうショーケースライブのようなライブが行われることもあった。ファッション系イベントのときトイレに行ったら隣に三宅一生氏がいたなんてことも。

TV・雑誌の取材もたまにあり、TV取材では独占!女の60分」や「出没!!おもしろマップ」など。「女の60分」はレポーター役の女性がレーザーのオペレーションをするという企画だったのを覚えている。

店が終わるのは夜中3時過ぎ、バイトのウエィターさんは始発まで待っていたようだが私はなんと毎日タクシーで帰っていた。片道3000円くらいだろうか?半年以上それを続けていたのだ。DJに「近くに部屋借りたほうが安いよ」といわれたがもっともである。
1978年の11月末~12月位にそのディスコはオープンした。六本木The Beeである。
そこに前出のYさんが製作したレーザーディスプレーシステムが設置されたのだ。
私をスカウトしたAさんはレーザー導入にあたってコーディネート的なことをしていたと思う。
確か「東洋初のレーザーディスコ」なんてネーミングもあった気がする。今聞くとすごいネーミングだけど。

SP製のクリプトンガスレーザーを光源にして青・緑・黄・赤4色に分光していた。2~3W位は出ていたと思う。コントロール卓は完全アナログでオシレーターが何チャンネルかあり、ミックスしてリサージュ波形を発生させXYスキャナーをコントロールして壁面に絵を描いたり、光路の途中にソレノイドでミラーを出入りさせて天井近くにビーム光を走らせていたりした。たまに前出の図形再生機も使っていた。

レーザーのコントロールブースはバーカウンターの上の中二階のようなDJブースの隣にあった。椅子に座ると頭がつかえそうな天井高。まともな階段もなく脚立で上り下りしていた。

途中から無くなったような気がするが初めのうちは数分の「レーザーショータイム」があった。誰も教えてくれる人もなくいきなりバイトの学生(私)がやるはめになったのである。相当いい加減だったとは思うがまだレーザー光そのものが珍しかったし4色出ているし多少の拍手くらいは貰えたのだった。

ここで夜9時くらいから夜中3時過ぎまで毎日毎日半年以上全く休みなく私のバイトは続くことになる。

ちなみにThe Beeは六本木の交差点から飯倉片町の交差点に向かい六本木ピット・インの角を曲がったところにあった。今はどうなっているのかとグーグルマップでストリートビューを見ていたらとんでもないものを発見してしまった。昔のThe Beeの入り口ドアである。ドアを開けるとタイムスリップしてしまいそうでものすごく怖い(笑)。

SC/MP II マイコンを自作した年の11月大学祭があり、私は実行委員の一人として参加した。
イベントの一つとして当時まだ珍しかったレーザーショーを大講堂で行う企画があり、たまたまその手伝いをすることになった。プロの業者さんを呼んだわけだが、そこに来たのが後に私の就職先となる当時はまだ会社になる前の主宰者Yさん。
Yさんが持ち込んだ機材はレーザー本体以外はすべて手作りだった。そんなほとんどアナログな機材の中に、唯一文字や図形をデジタルメモリからD/A出力できるものがあった。
これが私が自作したマイコンと同じように、アドレス入力とデータ入力も確か2進のトグルスイッチでデータは8ビット。再生するときはデータの開始アドレスと終了アドレスをずらずら並んだトグルスイッチで2進設定しクロックをオンすればその間をループで回ってD/A出力できた。メモリはバッテリーバックアップされていたと思う。絵を切り替えるときはどうするか、それは開始アドレスと終了アドレスの並んだトグルスイッチを同時にエイヤッと切り替えるのであった(笑)。
Yさんからそんな機材のかんたんな説明を受けて大体理解できた私が「なるほどこういじればいいんですね」などと話していると「キミ、それ分るの?」と一緒に来ていたAさんに話しかけられた。「ちょっと前にマイコンを自作したんです」と話すと「月末に六本木のディスコにレーザーを入れるんだけどバイトしない?」。いきなりスカウトである。
雑誌トランジスタ技術1977年10月号~1978年1月号に「◎マイコンピューターをつくろう SC/MPによるマイコン入門」という製作記事が掲載された。当時大学の映画学科の学生だった私はこの記事を見て作ってみたくなり、1978年初め頃ほぼ記事と同じ形で製作したのだった。アキバでパーツを買い集め、生まれて初めて多数の半田付けをどうにかこなして大きなトラブルもなく、マイコンは無事動いた。当時パソコンという言葉はまだなくて、マイクロコンピューターと「私の」をかけてマイコンと言っていたと思う。
SC/MP-II 8ビットCPUにメモリ256バイト、モニタROMもキーボードもなくアドレスとデータそれぞれ8個のトグルスイッチでプログラムを2進入力、出力表示も8個のLEDというものだった。とはいえこれをいじったおかげでコンピューターのなんたるかを直感的に理解できたと思う。ついでに2進-16進変換もそらでできるようになったし(笑)。
このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
そのあとシャープ製SM-B-80Tシリーズを買ってグラフィクスプログラミングをしたり、アメリカから通販で買ったCP/M用ボードにジャンクの8インチ(ベルトドライブ!)フロッピィドライブをつなげたり、APPLEIIコピー機(非合法!)に純正のフロッピィードライブ(カムドライブ!)をつなげたり、白黒MACを買ったり、PC-8001でプログラムしたり(順番がごちゃごちゃですね)して結局PC-9801シリーズへ収束したのだった。
話を戻して、そもそも映画学科の学生だった私がどうしてマイコンを作ろうと思ったかといえば、当時学校でスライドによるマルチディスプレーシステムをいじくっていて、これは1画面あたり2台のスライドプロジェクターを使って4画面とか8画面とかのディスプレーをするもの。1画面あたり2台あるので交互にフラッシュさせたりフェード出来たりした。この後キューブ状のCRTを積んで表示するシステムへ変わっていくわけだが、スライドも1990年くらいまでは使われていた。で、このコントローラーが紙テープを読み込んで動作するものだったのである。紙テープに動作を時間軸に沿ってパンチ穴でプログラミングしてコントローラーの紙テープリーダーにかけると、時間に沿ってプログラムを読み込みプロジェクターをコントロールする。
これをマイコンで出来ないかと思ったのがきっかけだったような気がする。きっとそういう製品もあったと思うけど。

さて、マイコンを作ったことがこのあと私の進路を決めることになろうとは。。。

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