ナック マイ・シャローナ 1979

The Beeで半年くらい全く無休で働いた後、知り合いを引っ張り込んでThe Beeから抜け出しつつあったころ、私はYさんの会社でレーザーディスプレイ機材の製作の手伝いを始めた。

会社と言ってもYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家だった。ハウスは今でも住み続けられているようだ。
そこで4,5人のスタッフの一人として働いていたのだが、何しろ自宅から遠く通えない距離だったので私ともう一人は空いているベッドルームを使って泊りこんでいた。月曜に行って金曜に帰ってくるみたいな感じだったと思う。食事はYさんとYさんの家族といっしょで半ば住み込みか。
機材をクルマに載せ中央高速を走って都内まで仕事に行く時、カーラジオはいつもFENだった。今では信じられない話だが当時ラジオで洋楽が聞きたければFENだった。そしてその頃いつも流れていたのがナックマイ・シャローナ。当時の思い出と強烈に結びついている。すでに亡くなられたメンバーもいるんですね。。。
なんと歌のモデルとなったシャローナさん本人がちゃっかり自分のウェブサイトでも流している。
ある日The Beeでのイベントの仕事が日曜の明け方近くに終わり、ドロドロに疲れてクルマで帰る途中夜も明け、朝6時ころ男3人ファミレスで朝食となった。入って席に着くと満面の笑みをたたえた店長らしき男性がメニューを持ってきて一言「これからおでかけですかぁー?」。確かに日曜だし、釣りに出かける3人組にでも見えたんだろうけど。。。コントのようにコケル3人だった(笑)。

2011年4月13日

カリフォルニア州 デービス 4 1994

残るは実技と口頭試問。

実技試験では結局リパックそのものはやらなかった。実技のうちで覚えているのは、ぐちゃぐちゃに絡んだメインキャノピーを正常な状態に戻す作業である。
前に書いたがパラシュートはメインとリザーブの2つのキャノピーがら成り立っていて、メインが正常に開かない場合リザーブキャノピーを開く。ただその場合メインキャノピーがどのような状態であれ外に出ているままリザーブキャノピーを開くと、2つのキャノピーが絡む危険がある。なのでその場合、まずメインを切り離して(カッタウェイ)からリザーブを開かなくてはならない。切り離すと言っても切り離し機構が装備されているのでハンドルを引くだけだが。。。
そうして風で翻弄されながら落ちてきたメインキャノピーはこれが開いていたの?というくらいパズルのように絡み合っている。そこで直す作業が必要になるのだ。
口頭試問では、作業手順やその方法、素材の種類や型番などを聞かれたと思う。
さてやっと合格となったが、この試験の合理的なのは合格となった瞬間からリガー資格が有効となるところである。
リガーは各自の7ケタの番号の他にやはり1人ごとに異なるアルファベットと数字3文字を組み合わせたシールシンボルを持っている。リガーはリパック後、リザーブキャノピーのピン(このピンにつながったハンドルを引いてピンを抜くとリザーブキャノピーが開く)にシール用の弱い力で切れる糸を結び鉛のシールで封印し、そのシールに3文字のシールシンボルを刻印する。リザーブを開かない限りそのシールは付いており、どのリガーがそのリザーブをリパックしたのか一目でわかる。
このシールシンボルを試験官は各自複数個割り当てられていて、合格した人間にその場で与えてくれるのだ。7ケタの番号は1~2カ月しないとFAAから発行されないが、それまでシールシンボルさえあれば7ケタ番号部分は”Pending”(未決定)としておけばよい。
アメリカ人は海外旅行に行きたがらないというCNNの記事があり、もちろん当時もそうだったと思う。
でも現地にいると、わずか10日間の滞在ではあったがアメリカは十分広い(広すぎる)からここで暮していれば十分じゃない?という感じが確かにした。だから「アバウト・シュミット」のシュミット氏だってリタイア後は夫婦で世界一周、じゃなくてでっかいキャンピングカーでアメリカを走りまわろうと考えたのだ。もっともその矢先奥さんが倒れてしまうのだが。。。
感謝祭にレイの家に招待されたときTVで「カッコーの巣の上で」を観たのだが、そういえばこちらもジャック・ニコルソンだった。
以下はActionAirとバンクハウスの往復の途中で撮った画像その他。
Load1.jpg
Load2.jpg
Airplane.jpg


2011年4月13日

カリフォルニア州 デービス 3 1994

リガーの仕事の70~80%位を占めるのがリパック作業である。スカイダイビングで使用するパラシュート(パラシュートとは装備全体を指し、開く傘の部分はキャノピーと呼ぶ)にはメインとリザーブ(予備・非常用)の2つのキャノピーがパックされて(たたまれて)入っている。メインキャノピーを普通使うわけだが、万一メインが正常に開かない場合リザーブキャノピーを使って降下する。
メインキャノピーはジャンパーが自分でパックするが、リザーブキャノピーはリガーがパックしなくてはならない。より安全性を高めるためである。また、リザーブキャノピーは180日ごとにリパック(広げて点検し、たたみ直す)しなくてはならない。
リガーの試験を受ける前にリガー資格者にスーパーバイズ(監督)してもらいながら20個リパック作業をしておく必要がある。それは監督者の署名とともにパックデータブックに記録される。
また「この者は確かに20個練習した」という証明書類をリガーに作成してもらう。
シニアリガーの試験は、筆記、口頭試問、実技の3つ。
デービスについた翌日にサクラメントにあるFAAの試験センターに筆記試験を受験しに行った。
ここでまずパックデータブックと証明書類を係員に提出し確認してもらう。係員はそれを見つつ、たとえば「このリザーブキャノピーはこちらのリザーブキャノピーとどういう違いがあるのか?」などということをこちらにいくつか質問してくる。そう、リガー資格を取るためには英語を理解出来なくてはならないという前提条件があるのだ。「こいつは話せるのか英語を?」と疑わしそうな目を向けてくるオジサンの質問を冷や汗ものでなんとかかわし試験を受けることが出来た。
筆記試験は3択問題が50問出て70点(70%)以上の正解率で合格。試験はPC上で受ける。部屋の周囲にずらりとPCが並んでいて様々な試験を受験者が同時に受けられるようになっていた。回答はマウスで選択するようになっていた。1994年だからOSはWindows3.1か、問題はキャラクター主体だからDOSベースだったかもしれない。
回答し終わり全体を見直した後「これで終了」をクリックすると「本当にいいのか」と確か2回ほど念を押され「OK」と答えるとその瞬間、画面に点数が出た(笑)。80数点くらいだったかな。
この数年後、別の人間がリガー試験を受けに行く時、東京にもFAAの試験センターがあることが分かった。結局リガーの筆記試験はそこでは受けられなかったのだが、パイロットや整備士など日本にもかなり受験生がいたためと思われた。ところが911以降、アメリカ国外の試験センターはほぼ無くなってしまい、日本では沖縄の基地内にしかない。テロリストがパイロットのトレーニングをしていたことに関係しているのだろう。
サクラメントにはスタッフ(バイト?)のイギリスから来ていた20代のオニイちゃんに車に乗せていってもらった。大きな街路樹が立ち並ぶ瀟洒な住宅地を走っていて、ふと気がつくと建ち並ぶ家々が小さくなっている。置いてあるクルマも10年以上昔のおんぼろ日本車だ。そう、ブロックでがらりと雰囲気と住民層が変わったのである。

このオニイちゃん「えっ?」とか「なに?」とか人に聞き返す時ぶっきらぼうに「Sorry!」と言っていたのが印象的だった。

この後ActionAirのロフトでハーネス用の大型ミシン操作とか、キャノピー修理など練習の日々。時間があればジャンプもするつもりで自分のパラシュートを持って行っていたのだが予定していた日は雨。結局別な日に1回だけジャンプすることが出来た。「これならわざわざ日本から持ってこなくても貸してあげたのに」とレイに言われた。。。ごもっとも!

2011年4月11日

カリフォルニア州 デービス 2 1994

私は自動車免許を持っていないので自転車を貸してもらい、ActionAirから走って5分くらいのところにあるバンクハウスに泊っていた。

これはジャンパーのための簡易宿泊所で食事は自炊、ベットは基本的に棚だけで寝袋持参。キッチン、バス、トイレ付き。下の画像のあんまりきれいとは言えない平屋がそれである。普通の小さな一軒家。左のクリーム色のバンはActionAirのスタッフのもので、右のVWキャンパーはジャンパーカップルが大型犬を連れ乗って来ていたもの。
SkyDance Bunkhouse 1994 1
SkyDance Bunkhouse 1994 2

SkyDance Bunkhouse 1994 3

上2番目の画像はキッチン。食事はスタッフの車に便乗させてもらって一緒に行ったり、スーパー(セーフウェイ)に乗せていってもらって買っていた。
セーフウェイにはイートインコーナーがあって丼物もあり「鳥唐揚げあんかけ丼」みたいなのを昼に食べたことがある。そのとき一緒にいたスタッフも普通に箸で食べていた。飲み物はコークだったけど。
感謝祭の時期だったのでレイの自宅に招待され七面鳥をごちそうしてもらったり、デービスにある寿司レストランに連れて行ってもらったりした。この寿司レストラン、店員は皆一見日本人だけど皆そうではなかった(笑)。
Osakasushi.jpg
感謝祭に自宅に招待してもらった帰り、クルマの中でレイの奥さんが私がクリスチャンでないということにとても不思議そうにしていたのが印象に残っている。
平日バンクハウスには私一人だったが休日や週末になるとジャンパーたちがやってきて3,4人位泊っていた。ジャンパーの中に仕事用の巨大なトラクターヘッドでやって来ている人もいた。下の画像はそのトラクターヘッドとジャンプの練習をするジャンパーたち。右はじのカーボーイハットに注目(かっこ良かった)。
Tractor.jpg
SkyDance DZ1994



2011年4月 3日

カリフォルニア州 デービス 1 1994

1994年11月、カリフォルニア州デービスに10日間滞在した。

FAA(アメリカ連邦航空局)のシニアリガーライセンスをとるため、1人で実習を兼ねて受験しに行ったのである。
これはパラシュートの整備資格で日本国内には同様の公的資格は無く、USPA(全米パラシュート協会)の規則に従って運営されているスカイダイビングクラブで整備の仕事をするために試験を受けに行ったのだった。より上級のマスターリガーライセンスもあり、日本にシニアリガーは20人位、マスターリガーは5人位いるのではないかと思う。
UAでサンフランシスコまで行き国内線に乗り換えてサクラメント空港からタクシーで目的地に向かった。今では考えられないが当時は機内に喫煙席があり、夜中に機体後方のトイレに行くとギャレーでパーサーたちがタバコをふかしていた。
Airline.jpg
GGBridge.jpg

私の記憶ではアメリカ国内で向かった先はサクラメントではなくもっとローカルな空港だったと思いこんでいた。というのも、何とも田舎な空港で確か平屋建てだった上にバゲッジの受け取りが屋外の木の棚に荷物が並べてあってピックアップするという、えらいのどかな状況だったから。国内線ターミナルだったせいかもしれない。
タクシーで向かっていくと、広大な畑の上をトラクターではなく小型の複葉機!が往復しながら何か散布している。映画「カプリコン1」でテリー・サバラス扮する操縦士が主人公たちを助けたアレ(予告編の2:30あたりから)である。あぁーアメリカだぁーと実感。ちなみにこれが初海外だった。
私が実習と試験を受けたのはデービスのYolo County Airport隣接するSkyDanceドロップゾーン(スカイダイビング降下場)にあるActionAirというショップ&ロフト(整備工場)だった。クルマにたとえるなら新車中古車販売をしている整備工場といったところだろうか。私が撮影してきた画像と今でもほとんど変わっていない。
Skydance DZ 1994

Skydance DZ 2 1994

ActionAir Loft 1

ActionAir Loft 2

ActionAir Loft 3


そこにFAAの試験官資格を持っているレイ(Ray)さんがいて彼がドロップゾーンのオーナーだった。
パイロットでもありインストラクターでもありリガー(の試験官)でもあった。インストラクターの試験官資格も持っていたかもしれない。スカイダイビングのメッカであるアメリカでもドロップゾーンを経営していくためには1人何役もこなさなくてはならないのだ。


2011年4月 2日

三重メトロヒルズ ショープラザ 2000

2000年に三重メトロヒルズ・ショープラザという不思議な場所に仕事で行ったことがある。そこにはゴルフ場に隣接した天然温泉付きのホテルと隣接したレストランシアターがあり、当時レストランシアターはすでに閉鎖、ホテルは休業中、温泉のみ営業中だった。現在は温泉も閉鎖(このページ下の画像で右に見えているのがレストランシアター)されたらしい。

福山雅治コンサートツアーのリハーサルで閉鎖されたレストランシアターを利用し、ステージに使用された自分が設計製作にかかわった大型LEDスクリーンのオペレーションのために行ったのだった。
リハーサルといっても照明と舞台装置のみのテクニカルリハーサルのためご本人の登場は無し。
このレストランシアターは資料によれば1994年にオープンし、ラスベガス直輸入の「スプラッシュ」というミュージカルを上演していた。出演者・舞台装置全てを持ってきたのである。シズまでアメリカから持ってきたと噂になったらしい(笑)。
タイトル通り水を多用したショーで緞帳の代わりに舞台前面が滝になる仕掛けとか移動式の巨大な水槽とか当時の名残りが色々あり、客席は多くのテーブルを舞台に向かって半円状に囲むように配置されていてロビーには出演者たちのパネル写真がそのまま飾られていた。
リハーサルは数日間行われたのでスタッフたちは隣の休業中のホテルの部屋を使えるようにしてもらい宿泊し、休業中のレストランで食事(給食)を作ってもらっていた。
普通こんな風にシアターが閉鎖されホテルも休業したら潰れそうなものだが、(なぜか)会社にはお金があり経営を続けられているとのことだった。。。
このシアターを使ったリハーサルは2006年にはまだ行われていたようだ。

2011年3月27日

東京でも現在余震が続いている Mar.12.2011

昨日の地震後、ガスが使えなくなった。

メーターで遮断されたかと思いリセットしてみたが復帰しない。
夕方、東京ガスのマイコンメーター関連のページにはほとんどアクセスできなくなっていた。
地域のサービス会社、東京ガスライフバルの電話もつながらない。24時間受け付けなので夜10時過ぎにまた電話してみるとつながった。状況を説明して係員に来てもらうことにしたがいつになるか分らないとのこと。
まぁ翌12日に来てもらえるかな。。。と考えていたら夜12時近くに部屋に来てくれた。エレベーターも止まっているのに素早い対応に感謝である。ガスが出ないのは建物のガスの遮断弁が閉まっているためで、その操作はライフバルでは出来ないとのことだった。
今日は問題なくガスが使えている。マイコンメーターを部屋ごとにリセットしてくれたのだろうか、それとも自動復帰する仕様だったのかな?

2011年3月12日

地震! Mar.11.2011

今午後5時半だがまだ余震で時々揺れている。

東京運河交差点が動作していないのは地震の影響ではない。何と昨日の夜からカメラが故障しているためである。

以前住んでいた超高層マンションでもそうだったが、地震の揺れは建物の固有振動の周期となるので船酔いしそうなゆっくりとした揺れになる。今回の揺れは今まで経験したことのない大きさの揺れだった。
初めのうちは大したことないかと思っていたがだんだん揺れが大きくなってきて部屋のあちらこちらでギシギシ音がし始め、家具は倒れなかったものの本棚の本がかなり落ちキャスター付きの洋服ハンガーなどは倒れた。揺れの激しい時は何かにつかまっていないとよろけそうなほどだった。
棚から落ちて電池が外れて止まった時計。揺れが収まって室内を見てみるとキッチンの壁紙に床から天井まで裂け目ができていた。ゆがみで破れたのだろうか。
UNI_0167.JPG
UNI_0162.JPG


バルコニーに出てみると何か破片が落ちている。見上げるとコンクリートの梁の角が欠けているようだ。こちらもゆがみに耐えられなかったのだろうか。
UNI_0160.JPG
UNI_0164.JPG
UNI_0165.JPG



2011年3月11日

ハウステンボス ボンボヤージデリーフデ 1992,1993

デイリーハウステンボス 1992年5月14日号これはデイリーハウステンボス1992年5月14日号1面である。当時日刊新聞が出ていたのだ(毎日変更しているページは限られていたとは思うが)。この新聞にイベントについて書かれた部分がある。
まずは昼のグロリアスパレード(デ リーフデ帰国凱旋パレード)、次に夜7時からのミュージカル・ボン
ボヤージ デ リーフデ(デ リーフデの出航)、そしてサウンドギャラクシー。画像クリックで拡大。

デイリーハウステンボス ハウステンボスの3大イベント

1992,93年に上演されたボンボヤージ デ リーフデはハウステンボス最大規模(約80名のキャスト)のミュージカルだった。以下は93年に撮影した上演中のミュージカルと上演後帰っていく出演者の画像。

ボンボヤージ デ リーフデ 1

ボンボヤージ デ リーフデ 2

ボンボヤージ デ リーフデ 3

ボンボヤージ デ リーフデ 4

1994年にデ リーフデ物語というミュージカルに変わった。ボンボヤージ デ リーフデが主にオランダからの出航シーンを描いているのに対し、デ リーフデ物語は日本に到着した後の乗組員と日本の大名たちにスポットが当てられている。これらのミュージカルに関してはのちにイースタンオデッセイが始まった時のスタッフブログでもふれられている。以下は94年に撮影したデリーフデ物語。

2011年3月 5日

アスキーネットから来た手紙 1986

アスキーネットには1985年のID4けた時代から参加していた。

初めのころは300ボー(300bps=ビット・パー・セコンド)の電話機カプラで接続した。エプソンが初めて低価格で発売したCP-20だったと思う。そんなスピードでも1バイト文字列のやり取りなら結構使えたのである。当時ネット上の日本語は半角カナ文字だった。

漢字はPCに漢字ROMが載っていないと使えなかった時代である。

会員が増えてIDが5ケタになった後、1986年10月にその手紙はやって来た。

ネット上で不正行為を働いたのでアカウントを1カ月停止するというのだ。「えええっ?」身に覚えのない私は何回か手紙(ネットは止められているし(笑))のやり取りをしたが結局理由が何だったのかは分らずじまい。ウィキペディアにあるように当時のシステムは初歩的であり、ネットユーザーがちょこちょこっとコマンドを打ちこむだけでシステムに入れてしまうような状態だったと思う。今考えれば知り合いとのチャットか掲示板でのやり取りで何か教えてもらったことを無意識で試したのかもしれない。

このメールと一緒に、1987年5月9日亀戸の東京平安閣で行われたアスキーネットユーザーのイベント(オフ会)で撮影した写真が出てきた。「アスキーネット一刻」とかそんな感じのイベント名だったかな。

壇上の方々はアスキーの担当者や掲示板のSIGオペだと思う。さて、これを覚えていらっしゃる方がどなたかここを覗かれますかどうか。。。

2011年3月2日