1989年、福岡市にオープンするホテル・イル・パラッツォ地下のディスコ「バルナ・クロッシング」ダンスフロア内ムービングミラーシステムの制御系を担当することになった。
まさにバブル期だけあってバルナ・クロッシングの内装は隅から隅までデザインされ、目に入るほとんどのものがデザインされた特注品だった。なにしろダンスフロアの床が平面でなかった(笑)。地中に埋まった巨大な卵の一部が顔をのぞかせているように床が盛り上がっていたのである。
2011年1月29日
YouTube Tokyo Skylineチャンネルのウェブマスターが印象に残る仕事や出来事を綴るブログ
1989年、福岡市にオープンするホテル・イル・パラッツォ地下のディスコ「バルナ・クロッシング」ダンスフロア内ムービングミラーシステムの制御系を担当することになった。
まさにバブル期だけあってバルナ・クロッシングの内装は隅から隅までデザインされ、目に入るほとんどのものがデザインされた特注品だった。なにしろダンスフロアの床が平面でなかった(笑)。地中に埋まった巨大な卵の一部が顔をのぞかせているように床が盛り上がっていたのである。
2011年1月29日
The Beeでの休みなしのアルバイトをようやく他人に引き継いたあと、私は前出Yさんの設立した会社に入った。
1980年、Yさんの知り合いの照明会社がYMOの武道館コンサートを担当することになり、ステージ電飾の仕事が私のところへやって来た。
PC-8001をコントローラとして使うことにし、拡張ボックス(PC-8012)のユニバーサルボードにインターフェース回路を組み、曲に合わせてプランを考えBASICで電飾プログラミングをし、コンサート本番でオペレーションをした。今ならメディアサーバーでLEDパネルでも制御するところだが、当時は普通にパネル数分電球が入っていて1つ1つリレーでON/OFFしていた。100個以上のリレーをI\Oポートのビットに割り当てトランジスタアレーで駆動したのである。
OMIYAGEの22ページ左下に写っているのが武道館での私の仕事場。
PC-8001本体からフラットケーブルで後ろの拡張ボックスに接続されているのがわかる。その上にビクターの9インチグリーンモニタがあり、その上の箱はLEDを実際のパネル数分並べて作った電飾モニター。何しろ本番まで実物のパネルが存在しないのでこれでシミュレーションして電飾パターンを作成したのだ。
PC-8001の右に少し見えているのは当時まだ高価だった5.25インチフロッピィドライブ。これは確か工人舎の2ドライブ入りのやつで¥248,000位だった。フロッピィのモーターはダイレクトドライブならぬベルトドライブである。この頃松武さんの使っていたシーケンサーはカセットにデータをセーブしていたので、リハである曲を演奏することになるとデータロード時間が結構かかった。こっちはフロッピィだったので楽々である(笑)。本番ではシーケンサーを2台並べて次の曲データをロードしつつ演奏していたと思う。
この仕事場の場所はどこだったかというとステージ矢野顕子さんのすぐ後ろ、見上げると壁と床のすきまからアッコちゃんの足首が見えるのだった。
電飾パターンはファンクションキーやスペースキーでタイミングを合わせたりパターンを切り替えられるようになっていて、PA屋さんに引いてもらったモニタースピーカーを聞きながらマニュアルでオペレーションしていた。松武さんから何か信号をもらって同期させようかという話もありちょっと打ち合わせさせていただいた記憶もあるが、どうインターフェースをとるかなど解決するのに時間が無く同期は実現しなかった。
ちなみに私がコントロールしていたのは背後の壁面だけで、床面は(本業の)電飾屋さんが担当していた。インカムで切り替えタイミングを出しながらオペレーションしていたので壁と床の電飾は少しずれている。
今ビデオで残っているのはフジカセットの招待日のものだが、この日だけ数曲曲目が異なっていた。
Cosmic Surfin’もこの日しか演奏しなかったと思う。というのもこの日この曲を演奏することになって前日の夜遅くまで電飾パターンを作成した記憶があるからだ。
打ち合わせで使った舞台図面のコピー(1)と(2)。この図だと壁面と床面はなめらかにつながっているが実際にはつながっておらず、床面の奥行きもこの図の半分程度である。
田町駅の近くのアルファのスタジオでリハーサルを見たり、細野さんに来てもらって電飾モニタ上でパターンを再生して意見をいただいたりしたのが懐かしい。
2011年1月24日
1980 続 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた
カテゴリー:YMO
SC/MP II マイコンを自作した年の11月大学祭があり、私は実行委員の一人として参加した。
Yさんが持ち込んだ機材はレーザー本体以外はすべて手作りだった。そんなほとんどアナログな機材の中に、唯一文字や図形をデジタルメモリからD/A出力できるものがあった。
Yさんからそんな機材のかんたんな説明を受けて大体理解できた私が「なるほどこういじればいいんですね」などと話していると「キミ、それ分るの?」と一緒に来ていたAさんに話しかけられた。「ちょっと前にマイコンを自作したんです」と話すと「月末に六本木のディスコにレーザーを入れるんだけどバイトしない?」。いきなりスカウトである。
2011年1月19日
雑誌トランジスタ技術1977年10月号~1978年1月号に「◎マイコンピューターをつくろう SC/MPによるマイコン入門」という製作記事が掲載された。当時大学の映画学科の学生だった私はこの記事を見て作ってみたくなり、1978年初め頃ほぼ記事と同じ形で製作したのだった。アキバでパーツを買い集め、生まれて初めて多数の半田付けをどうにかこなして大きなトラブルもなく、マイコンは無事動いた。当時パソコンという言葉はまだなくて、マイクロコンピューターと「私の」をかけてマイコンと言っていたと思う。
これをマイコンで出来ないかと思ったのがきっかけだったような気がする。きっとそういう製品もあったと思うけど。
さて、マイコンを作ったことがこのあと私の進路を決めることになろうとは。。。
2011年1月18日