ホテル・イル・パラッツォ バルナ・クロッシングのムービングミラーシステム 1989

1989年、福岡市にオープンするホテル・イル・パラッツォ地下のディスコ「バルナ・クロッシング」ダンスフロア内ムービングミラーシステムの制御系を担当することになった。

赤・青・緑の反射光を持つ40cm角くらいのダイクロイックミラーを9*9枚並べてそれそれのミラーにXY角度制御するサーボモーターが取り付けられている。壁面に取り付けられたこれらのミラーに反対側の壁面から高輝度放電ランプ(HID)で光を当て、ミラー面の動きと動くミラーの反射光で演出効果を上げるものである。
このページの画像上から6,7枚目の「ダンスフロア」に写っている。下がミラーを正面から見たもので、上がランプの投影部とミラーからの反射。
まず問題になったのは9*9*2(XY)=162chのアナログ信号をコントローラーPC(PC-9801)からミラーまでどうやって引くかであった。しかもコントローラーからミラーまでは数十メートルある。そこで98の拡張スロットに挿したカノープスのZ80ボードにD/Aコンバーターなどの拡張回路を付加してAMX出力用のソフトウェアをボード上で走らせておき、98からはデータを投げるだけでAMX出力できるようにした。ミラー側は市販のAMXデコーダーで受けて各サーボモーターに分配した。AMXはDMXの前の照明用多チャンネル信号伝送用の規格で、192chまでのアナログ電圧を時分割で送れた。
PC上ではミラーの動きのパターンを複数作成して再生しながら、複数のトラックボールでスピードやミラーの動きにバリエーションを与えられるアプリケーションソフトを作成し走らせた。このソフトでミラー面を水面のように波打たせたり、反射光が円形になるような動きをミラー間に遅延を与えて動かしたりすることができた。

まさにバブル期だけあってバルナ・クロッシングの内装は隅から隅までデザインされ、目に入るほとんどのものがデザインされた特注品だった。なにしろダンスフロアの床が平面でなかった(笑)。地中に埋まった巨大な卵の一部が顔をのぞかせているように床が盛り上がっていたのである。

2011年1月29日

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

The Beeでの休みなしのアルバイトをようやく他人に引き継いたあと、私は前出Yさんの設立した会社に入った。

1980年、Yさんの知り合いの照明会社がYMOの武道館コンサートを担当することになり、ステージ電飾の仕事が私のところへやって来た。

PC-8001をコントローラとして使うことにし、拡張ボックス(PC-8012)ユニバーサルボードにインターフェース回路を組み、曲に合わせてプランを考えBASICで電飾プログラミングをし、コンサート本番でオペレーションをした。今ならメディアサーバーLEDパネルでも制御するところだが、当時は普通にパネル数分電球が入っていて1つ1つリレーでON/OFFしていた。100個以上のリレーをI\Oポートのビットに割り当てトランジスタアレーで駆動したのである。

OMIYAGE22ページ左下に写っているのが武道館での私の仕事場。

PC-8001本体からフラットケーブルで後ろの拡張ボックスに接続されているのがわかる。その上にビクターの9インチグリーンモニタがあり、その上の箱はLEDを実際のパネル数分並べて作った電飾モニター。何しろ本番まで実物のパネルが存在しないのでこれでシミュレーションして電飾パターンを作成したのだ。

PC-8001の右に少し見えているのは当時まだ高価だった5.25インチフロッピィドライブ。これは確か工人舎の2ドライブ入りのやつで¥248,000位だった。フロッピィのモーターはダイレクトドライブならぬベルトドライブである。この頃松武さんの使っていたシーケンサーはカセットにデータをセーブしていたので、リハである曲を演奏することになるとデータロード時間が結構かかった。こっちはフロッピィだったので楽々である(笑)。本番ではシーケンサーを2台並べて次の曲データをロードしつつ演奏していたと思う。

この仕事場の場所はどこだったかというとステージ矢野顕子さんのすぐ後ろ、見上げると壁と床のすきまからアッコちゃんの足首が見えるのだった。

電飾パターンはファンクションキーやスペースキーでタイミングを合わせたりパターンを切り替えられるようになっていて、PA屋さんに引いてもらったモニタースピーカーを聞きながらマニュアルでオペレーションしていた。松武さんから何か信号をもらって同期させようかという話もありちょっと打ち合わせさせていただいた記憶もあるが、どうインターフェースをとるかなど解決するのに時間が無く同期は実現しなかった。

ちなみに私がコントロールしていたのは背後の壁面だけで、床面は(本業の)電飾屋さんが担当していた。インカムで切り替えタイミングを出しながらオペレーションしていたので壁と床の電飾は少しずれている。

今ビデオで残っているのはフジカセットの招待日のものだが、この日だけ数曲曲目が異なっていた。

Cosmic Surfin’もこの日しか演奏しなかったと思う。というのもこの日この曲を演奏することになって前日の夜遅くまで電飾パターンを作成した記憶があるからだ。

打ち合わせで使った舞台図面のコピー(1)(2)。この図だと壁面と床面はなめらかにつながっているが実際にはつながっておらず、床面の奥行きもこの図の半分程度である。

田町駅の近くのアルファのスタジオでリハーサルを見たり、細野さんに来てもらって電飾モニタ上でパターンを再生して意見をいただいたりしたのが懐かしい。

2011年1月24日

1980 続 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

カテゴリー:YMO

大学祭・ころがりこんだアルバイト 1978

SC/MP II マイコンを自作した年の11月大学祭があり、私は実行委員の一人として参加した。

イベントの一つとして当時まだ珍しかったレーザーショーを大講堂で行う企画があり、たまたまその手伝いをすることになった。プロの業者さんを呼んだわけだが、そこに来たのが後に私の就職先となる当時はまだ会社になる前の主宰者Yさん。

Yさんが持ち込んだ機材はレーザー本体以外はすべて手作りだった。そんなほとんどアナログな機材の中に、唯一文字や図形をデジタルメモリからD/A出力できるものがあった。

これが私が自作したマイコンと同じように、アドレス入力とデータ入力も確か2進のトグルスイッチでデータは8ビット。再生するときはデータの開始アドレスと終了アドレスをずらずら並んだトグルスイッチで2進設定しクロックをオンすればその間をループで回ってD/A出力できた。メモリはバッテリーバックアップされていたと思う。絵を切り替えるときはどうするか、それは開始アドレスと終了アドレスの並んだトグルスイッチを同時にエイヤッと切り替えるのであった(笑)。

Yさんからそんな機材のかんたんな説明を受けて大体理解できた私が「なるほどこういじればいいんですね」などと話していると「キミ、それ分るの?」と一緒に来ていたAさんに話しかけられた。「ちょっと前にマイコンを自作したんです」と話すと「月末に六本木のディスコにレーザーを入れるんだけどバイトしない?」。いきなりスカウトである。

2011年1月19日

初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978

雑誌トランジスタ技術1977年10月号~1978年1月号に「◎マイコンピューターをつくろう SC/MPによるマイコン入門」という製作記事が掲載された。当時大学の映画学科の学生だった私はこの記事を見て作ってみたくなり、1978年初め頃ほぼ記事と同じ形で製作したのだった。アキバでパーツを買い集め、生まれて初めて多数の半田付けをどうにかこなして大きなトラブルもなく、マイコンは無事動いた。当時パソコンという言葉はまだなくて、マイクロコンピューターと「私の」をかけてマイコンと言っていたと思う。

SC/MP-II 8ビットCPUにメモリ256バイト、モニタROMもキーボードもなくアドレスとデータそれぞれ8個のトグルスイッチでプログラムを2進入力、出力表示も8個のLEDというものだった。とはいえこれをいじったおかげでコンピューターのなんたるかを直感的に理解できたと思う。ついでに2進-16進変換もそらでできるようになったし(笑)。
このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
そのあとシャープ製SM-B-80Tシリーズを買ってグラフィクスプログラミングをしたり、アメリカから通販で買ったCP/M用ボードにジャンクの8インチ(ベルトドライブ!)フロッピィドライブをつなげたり、APPLEIIコピー機(非合法!)に純正のフロッピィードライブ(カムドライブ!)をつなげたり、白黒MACを買ったり、PC-8001でプログラムしたり(順番がごちゃごちゃですね)して結局PC-9801シリーズへ収束したのだった。
話を戻して、そもそも映画学科の学生だった私がどうしてマイコンを作ろうと思ったかといえば、当時学校でスライドによるマルチディスプレーシステムをいじくっていて、これは1画面あたり2台のスライドプロジェクターを使って4画面とか8画面とかのディスプレーをするもの。1画面あたり2台あるので交互にフラッシュさせたりフェード出来たりした。この後キューブ状のCRTを積んで表示するシステムへ変わっていくわけだが、スライドも1990年くらいまでは使われていた。で、このコントローラーが紙テープを読み込んで動作するものだったのである。紙テープに動作を時間軸に沿ってパンチ穴でプログラミングしてコントローラーの紙テープリーダーにかけると、時間に沿ってプログラムを読み込みプロジェクターをコントロールする。

これをマイコンで出来ないかと思ったのがきっかけだったような気がする。きっとそういう製品もあったと思うけど。

さて、マイコンを作ったことがこのあと私の進路を決めることになろうとは。。。

2011年1月18日