私はどうやって一橋中に越境入学できたのか? 1968

一橋中の思い出を書いてきて、ふと自分はどうやって台東区から千代田区立一橋中学校に越境入学できたのか考えてみた。

はっきり覚えていることがある。入学前、母親と一緒に「一橋中入学にお世話になる方」のお宅へ伺ったことがあり、高級な手土産を持って行ったことから大事な相手なのだろうと感じた。そのお宅の場所は荒川区だったようだ。

そのお宅には過去に千代田区へ越境入学していた大学生のお子さんがいたとうっすら記憶している。越境入学ノウハウのネットワークがあったのかもしれない。

私は今まで入学前に一時住民票を千代田区に移し入学手続をしたのだと思っていたので、今回確認するため台東区役所に行き戸籍の附票の写しを取ってみた。幸いなことに手書きの原本が破棄されずに残っており、それを見ると社会人となり実家から離れるまで私の住所は変わっていなかった。

つまり住民票を移さず越境入学できていた。千代田区学区内のどなたかの住所を前出の方の口利きで間借りしたのではと想像するが住民票の提出をすることなく例えば「寄留」など可能だったのだろうか?

千代田区立一橋中学校の体育館は建築家・菊竹清訓氏の建築作品だった 1961

一橋中1971年卒業生として思い出を書いてきて、何か参考になる資料がないかと検索していたら思いもよらない事実が分かった。

在校中の体育館がなんと建築家・菊竹清訓氏1961年の建築作品だったのだ。知らなかった!確かにコンクリート打放しでモダンな建物ではあった。

こちらの建築専門の古本屋|古書山翡翠で取り扱われていた『建築1961年11月号』に「千代田区立一橋中学校屋内体育館」として特集されていた。

体育館屋上写真は背後に写る共立講堂の丸い屋根と共立女子高の建物からカメラの位置と方向が分かる(1975年の国土地理院空中写真)。

1961年で体育館屋上プールは珍しかったのではないだろうか。その重量を支えるためか鉄筋コンクリート製と思われる柱と梁ががっしりしている。

屋上プールでの授業中、すぐ隣の共立女子中の窓から生徒達が顔をのぞかせていたのを覚えている。

3年生になった1970年の修学旅行では大阪万博にも行き菊竹清訓氏設計のエキスポタワーを見ているし、もう一回訪れた際にはタワーに上った。

エキスポタワー写真館

千代田区立一橋中学校1971年卒業生の学校の思い出 3 1971

中学校をセンターとした当時の航空写真が1971年卒業アルバムに載っている。

大体同じ位置から見た現在のGoogle Earthはこうなっている。旧一橋中が他校と統合後、区立神田一橋中学校になっている。建て替わった高いビルが周りに増えているが、以下の建物は現存する。

卒業アルバムに載っていた校舎の写真。

千代田区立一橋中学校1971年卒業生の学校の思い出 2 1971

◎戦争体験者が現役世代だった時代

「特攻隊の生き残り」を称しその時の話もする体育の先生がいた。私が中3になった1970年でも敗戦から25年後であり敗戦時22歳だった方でも47歳、戦争体験のある社会人が多くいらしたのである。

◎区立中の連合陸上大会は国立競技場

千代田区立中5校(今川、麹町、九段、一橋、錬成)の連合陸上大会が年1回あり、国立競技場で開催された。各校から選抜された選手たちは国立競技場のトラックやフィールドで競技できたのだ。ちなみに陸上大会当日、その日に開催されるかどうか朝6時半頃ラジオのニッポン放送でアナウンス放送された。一都三県から集まる生徒たちへの連絡方法に最適だったのだろう。

◎学芸会(文化祭)の発表会は共立講堂

文化祭を学芸会と呼んだ。各文化部が校内で展示・発表したが、音楽部(コーラスや吹奏楽など)の演奏会は学校近くの共立講堂で行われた。この頃共立講堂(神田共立講堂)は音楽ライブ会場として多く使われており’72,’73,’75のサディスティック・ミカ・バンドのライブ音源がCD化されている。

◎雅楽の鑑賞に歩いて桃華楽堂(皇居東御苑)へ

生徒手帳のカレンダーページ1971年3月12日(金)に10:00 北桔門 萬歳楽 納曽利と書かれており、これは皇居東御苑の桃華楽堂へ雅楽鑑賞に行った際のメモだろう。学校から歩いて行った。

一橋中学校で学んだことの一つは、世の中には出来る奴がいるということ。例えばバスケ部のエースかつ生徒会役員で成績はトップクラスなんて奴(失礼)がいた。

千代田区立一橋中学校1971年卒業生の学校の思い出 1 1971

前回は思わず卒業アルバムのデータ化から入ってしまったが思い出を振り返っていきたい。当時の生徒手帳が出てきた。表紙はビニールでサイズは約105*73mm位。

毎年色違いの表紙で発行されていたようだ。

中には校則がびっしり記載されている。以下は全て1970年版からの抜粋。

服装のきまりが色々細かく、印象に残っているのは登校時・下校時で男子肩掛け鞄(帆布製風)の左右を変える規定。成長期の子供への配慮だが、では女子の手提げ鞄はどうなんだと今ならつっこみたい。補助鞄は確か縦長紺色の肩掛け出来るビニール製だった。

私は台東区浅草から地下鉄銀座線に乗り日本橋で東西線に乗り換え竹橋駅で下車。1966年築のパレスサイドビル1b出口から出て学校まで歩いた(生徒手帳27ページのEコース)。生徒手帳27ページの指定通学路を見ると起点は全て駅か電停で越境通学前提だったことが分かる。28ページの簡易地図にはしっかり都電路線も描かれているがこの生徒手帳が発行された1970年には廃止され始めている。

パレスサイドビル1b出口は国立近代美術館に行く際に今も利用し、変わらない景色を懐かしんでいる。

進学校だけあって一橋中学校では学力別クラス分け授業が行われていた。英数国の3科目で時間割上の同じコマに複数のクラスで同じ科目の授業を行い、その時間は自分のクラスではなく学力別クラスに行って授業を受けるのである。確か3レベルに分かれていたと思う。時間割のページに謎の入れ替え矢印があり全く忘れているが、人員のやりくりのため授業が入れ替わったのかもしれない。いずれにせよ時間割を組むのは大変だったろう。

ちなみにこの学力別クラス分けは公立中にあるまじきと当時マスコミで批判され、先生のどなたかがTVに出演・説明なさっていたと記憶している。

おまけ

1枚ずつ切り取って使う物品購入表の綴り。校内の購買部で何か買うとき記入していたようだ。どうしてここまで管理されていたのかは謎。購買部は体育館の2階にありうら若きお姉さんがいらした。

千代田区立一橋中学校 1971年卒業アルバムから生徒住所録をデータ化してみた 1971

私は1968年、東京都千代田区立一橋中学校に台東区から越境入学し通っていた。1967年に学校群制度が始まり親や教育関係者にとっては大変な時期だったろうと想像するが、私自身は受験があるわけでも無く親が勧めるから入学したといったところだったと思う。越境入学者の多くは都立11群を目指していたのではないだろうか。

当時千代田区には区立中学校が今川、麹町、九段、一橋、錬成の5校あった。

区立中学校でありながら進学校であり40名ぐらいのクラスに女子が8~10名であったり色々ユニークなエピソードをこのブログに載せようと思い当時の生徒手帳や卒業アルバムを見ていた。ふと学区内通学者と学区外(越境)通学者の比率はどうだったのだろうと自分のクラスの名簿に目をやると、学区内男子10名、学区外男子22名、学区内女子4名 、学区外女子5名だった。

女子の学区内外比率が私には全く意外だった。クラスに女子が8~10名しかいないのは皆学区内からしか通っていないせいだろうと大変申し訳ないことに55年間誤解していた。思い返せば2017年に開かれた還暦同窓会で同じクラスの女性から「学区内の女子には、その気もないのに進学校に通わされるのは嫌だと私立中に行く人もいた」と聞いたことがあった。学区内だけだったらクラスに女子が4~5人しかいなかったことになる。

ここで学年の全体像を知りたい欲求がムクムクと湧き上がり、卒業アルバムの生徒住所録をExcelに落とし込んでみた結果が以下のグラフである。ちなみにクラス数は10クラス、卒業生は420名。

千葉県市川市の生徒が多く、各クラスに4~5人いる計算だ。友人も市川在住だった。最も遠いのは神奈川県厚木市で当時通学にどれだけ時間がかかったのだろう?