ロンドン交通博物館 2004

ロンドン交通博物館は結構鉄道好きな私としては押さえておきたかった場所。

2007年にリニューアルオープンしている。検索すると多くのサイトに行き着くので画像は少なめに。
ロンドン交通博物館 2004 1
左側に鉄道馬車が見えている。博物館の資料(ページ下部)によれば馬車軌道全盛ビクトリア朝のロンドンでは5万頭の馬が必要だったというのだから驚きである。
また1台の鉄道馬車を12時間運転するために12頭のチームが必要で、馬の世話が運転費用の55%に相当したとか。
資料にもあるように、何より馬糞が大問題だったろう。街角には馬糞を拾って稼ぐ少年たちがいたらしい(写真が展示されていた記憶がある)。電車が発明されて本当に良かった(笑)。
ロンドン交通博物館 2004 3
ロンドン交通博物館 2004 2

 <–これは下水管の模型?

いいえ 地下鉄です–>


ロンドンの地下鉄が別名Tubeと呼ばれるように、地下鉄トンネルの多くはシールド工法による経の小さい丸いトンネルである。私が実際歩いた地下鉄間の連絡通路も上の模型のように丸いトンネルだった。
今ならシールドマシンだが初期はこんな手掘り!
ロンドン交通博物館 2004 4
ロンドン交通博物館 2004 5
実物の車内に当時の様子が再現されている。
下右:ー!マイキーではありません。
 
 
 
 
ロンドン交通博物館 2階建てバス 2004
ロンドン交通博物館 2004 6
上のバスの画像に注目。バスの間に立っているようなベテランマニアと思われる方々も多くいらしたが、左側でベビーカーを押しているような小さな子供連れの若いお母さんが結構いらしたのが意外だった。ロンドンの若いお母さんを見たい方、意外な穴場かも(笑)。
コヴェントガーデン広場 1
コヴェントガーデン広場 2
交通博物館を出たコヴェントガーデン広場で演奏していた4人組。もう一人のスタッフ?が見物客にこのグループのCDを売り歩いており、演奏が気に入ったので買ってきた。今考えたら演奏チップは出してなかったけどCDを買ったので良しとしよう。
ロンドンでは2階建てバスも地下鉄も利用したので、翌2005年に発生した地下鉄とバスのテロ事件はショックだった。自分も巻き込まれるかもしれない、という危機感をとても身近に感じたからだ。

2012年1月14日

ロンドン・アイ 2004

2004年9月、ロンドンで開催されるPLASAという照明・音響・ステージ機材関連の展示会に出展するため1週間ほどロンドンに行っていた。1日だけ空いている日があり他の人間は連れ立って観光に出かけたのだが、私は朝からホテルの部屋でソフトのデバッグ作業(泣)。しかし1日掛かるかと思われた作業も昼ごろには終わったので午後から地下鉄に乗って一人で出かけてみた。

主な行き先はサウスバンク・テムズ川沿いのロンドン・アイ、コヴェントガーデンの交通博物館、サウス・ケンジントンの科学博物館、あとはそれぞれの周辺をぶらぶら歩いて回った。
まずはロンドン・アイ。片持ち式でホイールはテムズ川の上に張り出している。
建設方法は独創的で、まずホイールを90°倒した位置で川の上に水平にホイールを組み立ててから、片持ち式の支柱とともに基部を支点にして立ち上げ支持ワイヤーで固定している。このページのFoundationに倒した状態の画像がある。以前はB.A.(ブリティッシュ・エアウェイズ)がスポンサーだったが今は代わっているようだ。
ロンドンアイ 2004 1
ロンドンアイ 2004 2
ロンドンアイ 2004 3

上中:片持ち式の構造。左下へ伸びるワイヤーでホイールを垂直に保持している。上右:ワイヤー基部。それぞれクリックで拡大。
ロンドンアイ ゴンドラ 2004 1
ロンドンアイ ゴンドラ 2004 2

左:ゴンドラ(カプセルというべきか)乗り場。川の上であることがわかる。
右:カプセルは2つのリングの中を回転する構造。視界を遮る柱がない。
下左:頂点近くのカプセル。
下右:ビッグベン!気分は完全にお上りさん(笑)。
ロンドンアイ ゴンドラ 2004 3
ロンドンアイからビッグベンを見る 2004
ロンドンアイ駆動部 1
ロンドンアイ駆動部 2

左:ホイールの駆動部分。日本の観覧車でもおなじみのタイヤ式
油圧モーターのようだ。
下右:ホイールに電気を供給する集電レール。
ロンドンアイ遠景
ロンドンアイ 碑文
ロンドンアイ 集電レール

乗る前に当然手荷物チェックがあり、また乗客が降りたあとのカプセルに2,3人のスタッフが入り目視と共に長い棒の先につけたミラーで椅子の下や天井の死角部分も全てチェックしているのが印象的だった。

2012年1月13日

チューリヒ(チューリッヒ)オペラハウス 2 2004

イベントでスタッフに配られたネックストラップ。金と赤の組み合わせでなかなかゴージャス。
FIFAロゴ入りのサッカーボールマスコットも付いている。コレクターに売れないかな?(笑)
クリックで拡大。
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イベントの翌日、チューリヒ空港からフランクフルト経由で帰って来た。
チューリヒ空港で飛行機までバス移動の途中、隣にアルマーニのマークの入ったスーツカバーを3つ4つ持っている男性がいる。珍しいなと思ったら、前日のマエストロ氏だった。移動も大変です。
チューリヒは路面電車と、坂が多いためかトロリーバスが走っている。路面電車に乗ってみたが、料金箱も改札も一切なく切符の購入(乗り場で買う)は乗客の自主性にまかされている。色々な料金徴収のコストを考えると合理的な選択なのだろう。
購入した切符と路面電車・トロリーバス。路面電車の画像では手前に路面電車の架線とトロリーバスの架線の交差部分が写っている。昔は東京でも都電とトロリーバスが交差していたことを思い出す。
チューリッヒ 路面電車 切符
チューリッヒ路面電車 2004
チューリッヒ トロリーバス 2004

おまけ。チューリヒでこんなクルマ(自転車)を見つけた。当時少し話題になっていたような気もするが、電動アシスト付きあるいはバッテリー走行も可能な3輪車だったと思う。側面からの画像にペダルが見えている。
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2011年6月20日

チューリヒ(チューリッヒ)オペラハウス 1 2004

2004年、新たに開発したLED大型スクリーンシステムをドイツの会社に納入した。

そのシステムがFIFAのイベントでデビューすることになり、機材の最終調整(バージョンアップ)とサポートのため現地に出張することとなった。
ドイツ・ラシュタットに数日間滞在して機材を調整した後、スイス・チューリヒにクルマで向かった。
チューリヒ湖と泊ったホテル付近の街並み。クリックで拡大。
チューリッヒ 2004 1
チューリッヒ 2004 2

イベント会場はチューリヒオペラハウス、イベントはFIFA CENTENNIAL WORLD PLAYER GALA 2004。その年の最優秀サッカー選手を表彰する式典である。
裏手からみたオペラハウスとイベントの仕込み風景、劇場内の装飾。中央にはお約束?の巨大なシャンデリア。
チューリッヒ オペラハウス 2004 1
チューリッヒ オペラハウス 2004 2
チューリッヒ オペラハウス 2004 3
チューリッヒ オペラハウス 2004 4
チューリッヒ オペラハウス 天井 1
チューリッヒ オペラハウス シャンデリア
チューリッヒ オペラハウス 天井 2

チューリッヒ オペラハウス LEDスクリーン 1チューリッヒ オペラハウス LEDスクリーン 2


このイベントの司会者はベッケンバウアー、ゲストにはベッカム夫妻も招かれていた。オーケストラと(多分高名な)オペラ歌手が男女3名くらいずつ出演し、オペラの名曲とサッカー映像が流れるという面白い組み合わせだった。印象的だったのはある女性歌手が舞台袖で選手登場を観て「キャー、ロナウジーニョよ!(ハートマーク)」みたいなリアクションをしていたこと(笑)。オペラ歌っててもサッカーファンで不思議じゃないと納得。
舞台風景。
チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 1

チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 2


舞台に吊るされていた飾りは翌朝撤収中。チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 撤去中

2011年6月20日

カリフォルニア州 デービス 4 1994

残るは実技と口頭試問。

実技試験では結局リパックそのものはやらなかった。実技のうちで覚えているのは、ぐちゃぐちゃに絡んだメインキャノピーを正常な状態に戻す作業である。
前に書いたがパラシュートはメインとリザーブの2つのキャノピーがら成り立っていて、メインが正常に開かない場合リザーブキャノピーを開く。ただその場合メインキャノピーがどのような状態であれ外に出ているままリザーブキャノピーを開くと、2つのキャノピーが絡む危険がある。なのでその場合、まずメインを切り離して(カッタウェイ)からリザーブを開かなくてはならない。切り離すと言っても切り離し機構が装備されているのでハンドルを引くだけだが。。。
そうして風で翻弄されながら落ちてきたメインキャノピーはこれが開いていたの?というくらいパズルのように絡み合っている。そこで直す作業が必要になるのだ。
口頭試問では、作業手順やその方法、素材の種類や型番などを聞かれたと思う。
さてやっと合格となったが、この試験の合理的なのは合格となった瞬間からリガー資格が有効となるところである。
リガーは各自の7ケタの番号の他にやはり1人ごとに異なるアルファベットと数字3文字を組み合わせたシールシンボルを持っている。リガーはリパック後、リザーブキャノピーのピン(このピンにつながったハンドルを引いてピンを抜くとリザーブキャノピーが開く)にシール用の弱い力で切れる糸を結び鉛のシールで封印し、そのシールに3文字のシールシンボルを刻印する。リザーブを開かない限りそのシールは付いており、どのリガーがそのリザーブをリパックしたのか一目でわかる。
このシールシンボルを試験官は各自複数個割り当てられていて、合格した人間にその場で与えてくれるのだ。7ケタの番号は1~2カ月しないとFAAから発行されないが、それまでシールシンボルさえあれば7ケタ番号部分は”Pending”(未決定)としておけばよい。
アメリカ人は海外旅行に行きたがらないというCNNの記事があり、もちろん当時もそうだったと思う。
でも現地にいると、わずか10日間の滞在ではあったがアメリカは十分広い(広すぎる)からここで暮していれば十分じゃない?という感じが確かにした。だから「アバウト・シュミット」のシュミット氏だってリタイア後は夫婦で世界一周、じゃなくてでっかいキャンピングカーでアメリカを走りまわろうと考えたのだ。もっともその矢先奥さんが倒れてしまうのだが。。。
感謝祭にレイの家に招待されたときTVで「カッコーの巣の上で」を観たのだが、そういえばこちらもジャック・ニコルソンだった。
以下はActionAirとバンクハウスの往復の途中で撮った画像その他。
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Airplane.jpg


2011年4月13日

カリフォルニア州 デービス 3 1994

リガーの仕事の70~80%位を占めるのがリパック作業である。スカイダイビングで使用するパラシュート(パラシュートとは装備全体を指し、開く傘の部分はキャノピーと呼ぶ)にはメインとリザーブ(予備・非常用)の2つのキャノピーがパックされて(たたまれて)入っている。メインキャノピーを普通使うわけだが、万一メインが正常に開かない場合リザーブキャノピーを使って降下する。
メインキャノピーはジャンパーが自分でパックするが、リザーブキャノピーはリガーがパックしなくてはならない。より安全性を高めるためである。また、リザーブキャノピーは180日ごとにリパック(広げて点検し、たたみ直す)しなくてはならない。
リガーの試験を受ける前にリガー資格者にスーパーバイズ(監督)してもらいながら20個リパック作業をしておく必要がある。それは監督者の署名とともにパックデータブックに記録される。
また「この者は確かに20個練習した」という証明書類をリガーに作成してもらう。
シニアリガーの試験は、筆記、口頭試問、実技の3つ。
デービスについた翌日にサクラメントにあるFAAの試験センターに筆記試験を受験しに行った。
ここでまずパックデータブックと証明書類を係員に提出し確認してもらう。係員はそれを見つつ、たとえば「このリザーブキャノピーはこちらのリザーブキャノピーとどういう違いがあるのか?」などということをこちらにいくつか質問してくる。そう、リガー資格を取るためには英語を理解出来なくてはならないという前提条件があるのだ。「こいつは話せるのか英語を?」と疑わしそうな目を向けてくるオジサンの質問を冷や汗ものでなんとかかわし試験を受けることが出来た。
筆記試験は3択問題が50問出て70点(70%)以上の正解率で合格。試験はPC上で受ける。部屋の周囲にずらりとPCが並んでいて様々な試験を受験者が同時に受けられるようになっていた。回答はマウスで選択するようになっていた。1994年だからOSはWindows3.1か、問題はキャラクター主体だからDOSベースだったかもしれない。
回答し終わり全体を見直した後「これで終了」をクリックすると「本当にいいのか」と確か2回ほど念を押され「OK」と答えるとその瞬間、画面に点数が出た(笑)。80数点くらいだったかな。
この数年後、別の人間がリガー試験を受けに行く時、東京にもFAAの試験センターがあることが分かった。結局リガーの筆記試験はそこでは受けられなかったのだが、パイロットや整備士など日本にもかなり受験生がいたためと思われた。ところが911以降、アメリカ国外の試験センターはほぼ無くなってしまい、日本では沖縄の基地内にしかない。テロリストがパイロットのトレーニングをしていたことに関係しているのだろう。
サクラメントにはスタッフ(バイト?)のイギリスから来ていた20代のオニイちゃんに車に乗せていってもらった。大きな街路樹が立ち並ぶ瀟洒な住宅地を走っていて、ふと気がつくと建ち並ぶ家々が小さくなっている。置いてあるクルマも10年以上昔のおんぼろ日本車だ。そう、ブロックでがらりと雰囲気と住民層が変わったのである。

このオニイちゃん「えっ?」とか「なに?」とか人に聞き返す時ぶっきらぼうに「Sorry!」と言っていたのが印象的だった。

この後ActionAirのロフトでハーネス用の大型ミシン操作とか、キャノピー修理など練習の日々。時間があればジャンプもするつもりで自分のパラシュートを持って行っていたのだが予定していた日は雨。結局別な日に1回だけジャンプすることが出来た。「これならわざわざ日本から持ってこなくても貸してあげたのに」とレイに言われた。。。ごもっとも!

2011年4月11日

カリフォルニア州 デービス 2 1994

私は自動車免許を持っていないので自転車を貸してもらい、ActionAirから走って5分くらいのところにあるバンクハウスに泊っていた。

これはジャンパーのための簡易宿泊所で食事は自炊、ベットは基本的に棚だけで寝袋持参。キッチン、バス、トイレ付き。下の画像のあんまりきれいとは言えない平屋がそれである。普通の小さな一軒家。左のクリーム色のバンはActionAirのスタッフのもので、右のVWキャンパーはジャンパーカップルが大型犬を連れ乗って来ていたもの。
SkyDance Bunkhouse 1994 1
SkyDance Bunkhouse 1994 2

SkyDance Bunkhouse 1994 3

上2番目の画像はキッチン。食事はスタッフの車に便乗させてもらって一緒に行ったり、スーパー(セーフウェイ)に乗せていってもらって買っていた。
セーフウェイにはイートインコーナーがあって丼物もあり「鳥唐揚げあんかけ丼」みたいなのを昼に食べたことがある。そのとき一緒にいたスタッフも普通に箸で食べていた。飲み物はコークだったけど。
感謝祭の時期だったのでレイの自宅に招待され七面鳥をごちそうしてもらったり、デービスにある寿司レストランに連れて行ってもらったりした。この寿司レストラン、店員は皆一見日本人だけど皆そうではなかった(笑)。
Osakasushi.jpg
感謝祭に自宅に招待してもらった帰り、クルマの中でレイの奥さんが私がクリスチャンでないということにとても不思議そうにしていたのが印象に残っている。
平日バンクハウスには私一人だったが休日や週末になるとジャンパーたちがやってきて3,4人位泊っていた。ジャンパーの中に仕事用の巨大なトラクターヘッドでやって来ている人もいた。下の画像はそのトラクターヘッドとジャンプの練習をするジャンパーたち。右はじのカーボーイハットに注目(かっこ良かった)。
Tractor.jpg
SkyDance DZ1994



2011年4月 3日

カリフォルニア州 デービス 1 1994

1994年11月、カリフォルニア州デービスに10日間滞在した。

FAA(アメリカ連邦航空局)のシニアリガーライセンスをとるため、1人で実習を兼ねて受験しに行ったのである。
これはパラシュートの整備資格で日本国内には同様の公的資格は無く、USPA(全米パラシュート協会)の規則に従って運営されているスカイダイビングクラブで整備の仕事をするために試験を受けに行ったのだった。より上級のマスターリガーライセンスもあり、日本にシニアリガーは20人位、マスターリガーは5人位いるのではないかと思う。
UAでサンフランシスコまで行き国内線に乗り換えてサクラメント空港からタクシーで目的地に向かった。今では考えられないが当時は機内に喫煙席があり、夜中に機体後方のトイレに行くとギャレーでパーサーたちがタバコをふかしていた。
Airline.jpg
GGBridge.jpg

私の記憶ではアメリカ国内で向かった先はサクラメントではなくもっとローカルな空港だったと思いこんでいた。というのも、何とも田舎な空港で確か平屋建てだった上にバゲッジの受け取りが屋外の木の棚に荷物が並べてあってピックアップするという、えらいのどかな状況だったから。国内線ターミナルだったせいかもしれない。
タクシーで向かっていくと、広大な畑の上をトラクターではなく小型の複葉機!が往復しながら何か散布している。映画「カプリコン1」でテリー・サバラス扮する操縦士が主人公たちを助けたアレ(予告編の2:30あたりから)である。あぁーアメリカだぁーと実感。ちなみにこれが初海外だった。
私が実習と試験を受けたのはデービスのYolo County Airport隣接するSkyDanceドロップゾーン(スカイダイビング降下場)にあるActionAirというショップ&ロフト(整備工場)だった。クルマにたとえるなら新車中古車販売をしている整備工場といったところだろうか。私が撮影してきた画像と今でもほとんど変わっていない。
Skydance DZ 1994

Skydance DZ 2 1994

ActionAir Loft 1

ActionAir Loft 2

ActionAir Loft 3


そこにFAAの試験官資格を持っているレイ(Ray)さんがいて彼がドロップゾーンのオーナーだった。
パイロットでもありインストラクターでもありリガー(の試験官)でもあった。インストラクターの試験官資格も持っていたかもしれない。スカイダイビングのメッカであるアメリカでもドロップゾーンを経営していくためには1人何役もこなさなくてはならないのだ。


2011年4月 2日