東京でも現在余震が続いている Mar.12.2011

昨日の地震後、ガスが使えなくなった。

メーターで遮断されたかと思いリセットしてみたが復帰しない。
夕方、東京ガスのマイコンメーター関連のページにはほとんどアクセスできなくなっていた。
地域のサービス会社、東京ガスライフバルの電話もつながらない。24時間受け付けなので夜10時過ぎにまた電話してみるとつながった。状況を説明して係員に来てもらうことにしたがいつになるか分らないとのこと。
まぁ翌12日に来てもらえるかな。。。と考えていたら夜12時近くに部屋に来てくれた。エレベーターも止まっているのに素早い対応に感謝である。ガスが出ないのは建物のガスの遮断弁が閉まっているためで、その操作はライフバルでは出来ないとのことだった。
今日は問題なくガスが使えている。マイコンメーターを部屋ごとにリセットしてくれたのだろうか、それとも自動復帰する仕様だったのかな?

2011年3月12日

地震! Mar.11.2011

今午後5時半だがまだ余震で時々揺れている。

東京運河交差点が動作していないのは地震の影響ではない。何と昨日の夜からカメラが故障しているためである。

以前住んでいた超高層マンションでもそうだったが、地震の揺れは建物の固有振動の周期となるので船酔いしそうなゆっくりとした揺れになる。今回の揺れは今まで経験したことのない大きさの揺れだった。
初めのうちは大したことないかと思っていたがだんだん揺れが大きくなってきて部屋のあちらこちらでギシギシ音がし始め、家具は倒れなかったものの本棚の本がかなり落ちキャスター付きの洋服ハンガーなどは倒れた。揺れの激しい時は何かにつかまっていないとよろけそうなほどだった。
棚から落ちて電池が外れて止まった時計。揺れが収まって室内を見てみるとキッチンの壁紙に床から天井まで裂け目ができていた。ゆがみで破れたのだろうか。
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バルコニーに出てみると何か破片が落ちている。見上げるとコンクリートの梁の角が欠けているようだ。こちらもゆがみに耐えられなかったのだろうか。
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2011年3月11日

ハウステンボス ボンボヤージデリーフデ 1992,1993

デイリーハウステンボス 1992年5月14日号これはデイリーハウステンボス1992年5月14日号1面である。当時日刊新聞が出ていたのだ(毎日変更しているページは限られていたとは思うが)。この新聞にイベントについて書かれた部分がある。
まずは昼のグロリアスパレード(デ リーフデ帰国凱旋パレード)、次に夜7時からのミュージカル・ボン
ボヤージ デ リーフデ(デ リーフデの出航)、そしてサウンドギャラクシー。画像クリックで拡大。

デイリーハウステンボス ハウステンボスの3大イベント

1992,93年に上演されたボンボヤージ デ リーフデはハウステンボス最大規模(約80名のキャスト)のミュージカルだった。以下は93年に撮影した上演中のミュージカルと上演後帰っていく出演者の画像。

ボンボヤージ デ リーフデ 1

ボンボヤージ デ リーフデ 2

ボンボヤージ デ リーフデ 3

ボンボヤージ デ リーフデ 4

1994年にデ リーフデ物語というミュージカルに変わった。ボンボヤージ デ リーフデが主にオランダからの出航シーンを描いているのに対し、デ リーフデ物語は日本に到着した後の乗組員と日本の大名たちにスポットが当てられている。これらのミュージカルに関してはのちにイースタンオデッセイが始まった時のスタッフブログでもふれられている。以下は94年に撮影したデリーフデ物語。

2011年3月 5日

アスキーネットから来た手紙 1986

アスキーネットには1985年のID4けた時代から参加していた。

初めのころは300ボー(300bps=ビット・パー・セコンド)の電話機カプラで接続した。エプソンが初めて低価格で発売したCP-20だったと思う。そんなスピードでも1バイト文字列のやり取りなら結構使えたのである。当時ネット上の日本語は半角カナ文字だった。

漢字はPCに漢字ROMが載っていないと使えなかった時代である。

会員が増えてIDが5ケタになった後、1986年10月にその手紙はやって来た。

ネット上で不正行為を働いたのでアカウントを1カ月停止するというのだ。「えええっ?」身に覚えのない私は何回か手紙(ネットは止められているし(笑))のやり取りをしたが結局理由が何だったのかは分らずじまい。ウィキペディアにあるように当時のシステムは初歩的であり、ネットユーザーがちょこちょこっとコマンドを打ちこむだけでシステムに入れてしまうような状態だったと思う。今考えれば知り合いとのチャットか掲示板でのやり取りで何か教えてもらったことを無意識で試したのかもしれない。

このメールと一緒に、1987年5月9日亀戸の東京平安閣で行われたアスキーネットユーザーのイベント(オフ会)で撮影した写真が出てきた。「アスキーネット一刻」とかそんな感じのイベント名だったかな。

壇上の方々はアスキーの担当者や掲示板のSIGオペだと思う。さて、これを覚えていらっしゃる方がどなたかここを覗かれますかどうか。。。

2011年3月2日

戸川純・レーダーマン アーム・ヘッド電飾 製作中画像 1984

古い写真アルバムを見直していたらこんなものも。

レーダーマンアーム・ヘッド電飾製作中の画像である。
ツアーで持ち歩けるようトランクに一式収まるようにした。
前にも書いたがアームは他の方が作られたもので、楽器のパーツやばねなどが組み合わされ取り付けられている。
1枚目の画像、アームの奥にふたを開けたコントロールボックスが写っている。画像クリックで拡大。
 レーダーマンアーム電飾取付作業中 1レーダーマンアーム電飾取付作業中 2
 
レーダーマンカチューシャ電飾取付作業中
 レーダーマンアーム運搬トランク外観


2011年2月28日

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾プレゼン画面

武道館でのオペレーションは、舞台背面の電飾ブロックを模したLEDモニタでパターンを確認していてCRT画面上には描画していなかった。CRTに描画したことはなかったかなと考えていたら、CRT画面をポラロイド(SX-70)で撮影したプリントが沢山出てきた。

まずCRT上でパターンが点滅するようなソフトを組んで、次にパターンをI/Oポートに出力するように変更したのかもしれない。同時にCRTでパターンのイメージをプレゼンしていたようだ。

こんな感じでパターンを変化させていけますよというイメージのためだけにCRTに描画させて、プレゼン資料で持っていくためにポラロイドで撮影したと思う。当時はそれが最も手っ取り早い方法だったのだろう。

1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 1
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 2
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 3
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 YMOロゴ
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 4
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 5
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 6


2011年2月28日
2017年8月16日修正

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート進行表

このブログのネタになるかと思い古い写真アルバム類を見直していたら、思いもよらないものがいくつか出てきた。

まずは1980年YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートの進行表である。
これは以前載せたこの画像のキーボード左に置かれた紙そのものだと思う。
やはり12月27日だけアンコール以降の曲目が異なっている。
ただ以前書いた「COSMIC SURFIN」が12月27日だけという私の記憶は間違っていて、全日演奏されていたことが分かる。コンサートのリハーサル以降初日前に電飾パターンを手直ししたのか12月27日だけ別バージョンとしたのか覚えていない。
12月24~26日用の進行表に「マイクロコンポーザー?」と書きこまれている箇所があるが、これらの曲を松武さんからタイミング信号をもらって同期させようとしたのかもしれない。下のほうに松武さんの連絡先が記入されている。私の打ち合わせした記憶はこの時のものかもしれないが、コンサート直前(リハーサル時?)では同期できなかったのも当然だろう(笑)。画像クリックで拡大。
1980 YMO武道館ライブ進行表 12月24日~26日
1980 YMO武道館ライブ進行表 12月27日


2011年2月27日

万博みたいなアトラクション 志摩スペイン村 1995

1995年のクリスマスシーズンに志摩スペイン村へ遊びに行ったことがある。

私は担当しなかったが勤務先が仕事で関係していた。“ドンキーズシェリー”に出てくる巨大ロバの目からレーザーを出す仕掛けである。オリジナリティという意味ではこのアトラクションはかなりきていた(笑)と思う。
タイトルにあるのは”ミュージカルサーカス”のことである。乗ってみて「こりゃまるで万博のパビリオンみたいだなぁ」と思った。円形の客席に案内されるのだが、これがまんま60人乗りのライドなのだ。最初の円形シアターの中を回転しながら見終わると客席全体がシアターの地下?まで下降し平行移動し上昇すると次のシアターの中にいる。。。という仕掛けで計4つのシアター内を移動するのである(動画)。
このやりすぎとも思える異様に大掛かりな装置に感心した。客席が上下してシアターに入ったり回転したりってまるで大阪万博へのオマージュ。東芝IHI館しかり虹の塔しかり(ちょっと違うけど)三井グループ館しかり。
このアトラクションは現在は別なものになっている。シアター内の人形たちのメカや何といってもあの客席の移動装置のメンテナンスは大変だったのではないだろうか。

日本万国博覧会 1970

である。私は計2日間見た。1日は中学の修学旅行で、もう1日は父親と往復夜行のバスツアー!で行った。

修学旅行では数人のグループに分かれて会場内を見て回ったのだが、偶然その日は会場に乗り入れている私鉄がストで止まり会場はとてもすいていた。「まぼろし万国博覧会」の年表を見ると「4月30日大手私鉄のストライキの影響で会場もがら空き」(注)とある。
行く前にグループでどのパビリオンを見て回るか計画を立てたのだが、予定のパビリオンは午前中で全部見終わってしまったほどだった。三井グループ館でコンパニオンに「今日来られたお客さんはラッキーです」と言われたのを覚えている。
もう一日と合わせて私が見たのを覚えているのは、テーマ館三菱未来館虹の塔(専売公社館)、鉄鋼館コダック館リコー館エキスポタワー、ラテナマジカ劇場、ドイツ館せんい館電力館水上シアター、三井グループ館、日本庭園といったところ。あと小さなパビリオンもいくつか覗いたと思う。以下の画像は修学旅行の時にオリンパスペンで撮影したもの。会場内はすいていたとはいえモノレール車内はそこそこ混んでいる。鉄鋼館では音響シアター現代音楽に乗せてレーザーが飛び、ドイツ館でもシュトックハウゼンが流れていた。三菱未来館では未来の技術の一つとして「ジェット機からミサイルを発射して台風を消滅させる技術」なるものを紹介していたが。。。それって「ストームライダー」じゃないか(笑)。
EXPO70 みどり館
EXPO70 会場風景 2
EXPO70 モノレール車内EXPO70 メキシコ館
EXPO70 ロープウェー 会場風景 1
むちゃくちゃ面白い、というのが当時の私の印象である。もしこれが高校の修学旅行だったらもっと斜に構えていただろうし、もっと小さかったら理解できなかったろう。万博は私に大きな影響を与え、大学で映画学科(映像コース)を選ばせた。もし修学旅行の日が普通に混んでいてろくにパビリオンを見られなかったらどうなっていただろう。。。
(注)私が行ったのが4月30日か資料を探していたら修学旅行の集合写真が出てきた。万博会場前でとった写真には日付が無いが、びわ湖大橋・平安神宮・清水寺で撮った写真には5月1日と入っている。やはり4月30日だったのだ。
また、中学の卒業アルバムを見たら最後の方にニュース社が作った万博のページが4ページあり、見開きでオープン前と思われる会場の空撮画像があったので載せておく。クリックで拡大(サイズ注意1400*1000)。
修学旅行EXPO70.jpgEXPO70.JPG


2011年2月19日

ハウステンボス港に入港していた船 / 失われた船 1992,1993

ハウステンボス関連画像を探してアルバムを開いていたら懐かしい画像が出てきた。

まず博多-ハウステンボス間を結んでいたジェットフォイル“ビートル”である。博多からハウステンボスまで一度乗船したことがある。1994年に航路が廃止となった。画像クリックで拡大。
ハウステンボスに入港するビートル 1
ハウステンボスに入港するビートル 2
ビートル テレホンカード
次はハウステンボス-オランダ村間を結んでいた”ワーペンファンホールン“。”アメリア”(現在の姿)が1993年に登場してからしばらくは2隻とも就航していた。オープンエアの2階席が爽快だった。2001年に関門汽船に買い取られ門司港に係留され船上レストランとなっている。現在も無事に営業しているようだ。
右の画像にはハウステンボス港に入港しようとしている”ワーペンファンホールン”と”ビートル”が写っている。1992年、ハウステンボスオープンから2年間(2年以下?)しか見られなかった風景である。
ワーペンファンホールン
ハウステンボスに入港するビートルとワーペンファンホールン


最後にオランダ村”プリンス・ウィレム”の後姿。2003年10月21日ランダ村を離れオランダデンヘルダー港に係留中2009年7月30日火災で焼失した。こちらのブログでは再建計画にふれているがどうなっているのだろう。

オランダ村のプリンスウィレム
2011年2月14日