ポラビジョン Polavision カタログ 1978

ポラビジョンのカタログをやっと発掘した。アメリカで発売されたのは1977年だがこのカタログには昭和53年10月1日と記載されているので、日本で発売されたのは1978年だったのだろう。

もしポラビジョンに音声も入って、ポラビジョンプレーヤーの光学系を切り替えると壁面投影も出来て、フォトテープカセットが簡単に開けられて既存のサウンド8mm映写機でそのまま上映可能だったら。。。

てっきり同時期に出たと思っていたポラクローム(35mmインスタントリバーサルフィルム)はこちらによれば1983年発売で2002年までは製造されていたとのこと。

Polavision Home Movies by Polaroid with Danny Kaye

COMKIT 8060に付属していた「APPLICATION FOR NIBL VOL.1」平綴じ冊子 1978

自分でNIBL BASICマシンを自作した話は先日書いたが、仕事でもアドテックシステムサイエンス製COMKIT80608061あるいは8062(搭載RAM量の違うモデルか?)を使用したレーザーディスプレーコントローラーを製作して1980年頃に新宿のディスコに納入したことがある。

そのCOMKITに付属していたのがAPPLICATION FOR NIBL VOL.1なるタイトルのB4用紙を横方向にホチキスで綴じた冊子。

NIBL BASICのプログラム24例と、未完の大作?!NIBL TREKが載っている。文章が全て手書きであることにまず驚くが、つまり日本語を扱えるPC・ワープロがまだ無かったということだ(正確にはこの年東芝が初の日本語ワープロJW-10を発売したが630万円した)。プログラムリストもプリンタ出力を切り張りした感じである。

APPLICATION FOR NIBL VOL.1.PDF

表紙

まえがきと目次

ナショナル ラジカメ C-R1のカタログ 1978

ナショナルのラジオ・ストロボ付き110カメラ ラジカメC-R1のカタログ。
ナショナルが110カメラを作っていたのが意外だが、こちらのブログによればこのカメラがパナソニックデジタルカメラのルーツらしい。
キワモノ的で、これ売れたのかな?と思ってしまうがTVコマーシャルも流していたようだし、少なくともC-R1, C-R2C-R3まで進化していたのだから結構売れていたのだろう。
このカタログ、銀座ソニービルB1にあったヒロー商会で貰っていた!ソニービルに寄るとよくのぞいていたなぁ。

ラジカメ C-R1 カタログ 表紙裏表紙 ラジカメ C-R1 カタログ  1ラジカメ C-R1 カタログ  2


サンシャイン・レザリアム -2- 1978

サンシャイン・レザリアムの入場券、裏は広告。以下画像クリックで拡大。

サンシャイン・レザリアム チケット1
サンシャイン・レザリアム チケット2


多分、入場者に配布されたと思われるプログラム。21cm×20cm。巻々四つ折になっている。
表紙と裏表紙。
サンシャイン・レザリアム プログラム1
サンシャイン・レザリアム プログラム 裏表紙


見開き。
サンシャイン・レザリアム プログラム 見開き


全部広げた左3面。
サンシャイン・レザリアム プログラム 三面


広告ページ表、裏。光洋は今でも有楽町ビルで営業中
サンシャイン・レザリアム プログラム 広告1
サンシャイン・レザリアム プログラム 広告2


2014年3月21日

サンシャイン・レザリアム -1- 1978

1978年10月から、池袋サンシャインシティのプラネタリウムドームでレザリアムが公開された。

プログラムの内容は京都で上演されていたものと同じである。
こちらの8ページ目に見学記が載っている。
以下はパンフレットで2種類手元にある。10月5日公開決定!と記載されている方が公開間近に配布されたものだろうか。
サンシャイン レザリアム パンフレット1
サンシャイン レザリアム パンフレット2
サンシャイン レザリアム パンフレット3
サンシャイン レザリアム パンフレット4



2014年3月8日

KBS レザリアムセンター -3- 1978

KBS レザリアムセンターは1978年3月19日に公演終了となり、同年10月から東京池袋サンシャインシティで公開されることになる。

公演終了記念として”レーザーとホログラフィー展”が開催された。
こちらに終了間際のレザリアムをレポートした記事がある。
以下は”レーザーとホログラフィー展”のパンフレット。京都のレザリアムをもう一回観に行った記憶が無いので、東京でのレーザー関連の展示会か何かで手に入れたのだろうか。
Laser_and_Holography1.jpg
Laser_and_Holography3.jpg
Laser_and_Holography2.jpg


2014年3月8日

NIBL BASIC ROMを買ったのは東急ハンズだった! 1978

1月の「初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978」で以下のように書いた。

———————————————————————————————-
このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
———————————————————————————————-
このターミナルの写真が出てきた。 以下画像クリックで拡大。

自作CRTターミナル

うしてわざわざ電卓キーなんかばらしてキーボードを作るのか今考えれば不思議だが、当時、コンピューター用キーボード(PCはまだ存在しない)は高価だったしPS2コネクタみたいな統一規格もなかったからである。
それによく見るとこのキーボード、並びがすごく変である。アルファベットは問題ないが、カナがキーボード最上段左からアイウエオカキクケ..と並んでいて、じゃ2段目もそうやって続いているのかというとバラバラだ。
電卓キーに合わせて自分でも少し入れ替えたかもしれないけど、このターミナル基板はキーボードマトリクスでキーを読み込んでいたはずだから、このターミナル基板の設計がそうなっていたのだろう。
いずれにせよNIBL BASICではカナは使えなかったので問題なかったのだが(笑)。
さてそのNIBL BASIC ROMを買った時の領収書が出てきた。
NIBL BASIC ROM 東急ハンズ領収書な、なんと東急ハンズで買っていた。
1978年11月26日。
てっきりアキバのロビン電子とかで買ったものとばかり思っていた。
なんでまたハンズで買ったのだろう。
すっかり忘れているが無理やりこじつけてみると。。。
考えてみれば当時個人が買えるような価格のパソコンというものは存在せず、アマチュアが買えるのはCPUメーカーの出していた自社CPUチップの売り込み用評価用キット類(あるいは自作)しかなかった時代。
まぁ、いうなればアマチュアにとってはDIYホビーだったわけで、となれば東急ハンズにマイコンコーナーがあっても不思議ではなかったかな?と。
いまなら大人の科学マガジンといったところか。
しかしTinyBASIC入りのROMが1個¥24,000、よく買ったなぁ(笑)。

2011年8月18日

六本木 The Bee 1978 続き

The Beeの(当時私は店長と思っていた)プロデューサーは岡田大貮氏、30年以上ぶりに拝見しとても懐かしい。

たまに貸切イベントが開かれることがあり、今でいうショーケースライブのようなライブが行われることもあった。ファッション系イベントのときトイレに行ったら隣に三宅一生氏がいたなんてことも。

TV・雑誌の取材もたまにあり、TV取材では「独占!女の60分」や「出没!!おもしろマップ」など。「女の60分」はレポーター役の女性がレーザーのオペレーションをするという企画だったのを覚えている。

店が終わるのは夜中3時過ぎ、バイトのウエィターさんは始発まで待っていたようだが私はなんと毎日タクシーで帰っていた。片道3000円くらいだろうか?半年以上それを続けていたのだ。DJに「近くに部屋借りたほうが安いよ」といわれたがもっともである。

2011年1月21日

六本木 The Bee 1978

1978年の11月末~12月位にそのディスコはオープンした。六本木The Beeである。

そこに前出のYさんが製作したレーザーディスプレーシステムが設置されたのだ。
私をスカウトしたAさんはレーザー導入にあたってコーディネート的なことをしていたと思う。
確か「東洋初のレーザーディスコ」なんてネーミングもあった気がする。今聞くとすごいネーミングだけど。
 
SP製のクリプトンガスレーザーを光源にして青・緑・黄・赤4色に分光していた。2~3W位は出ていたと思う。コントロール卓は完全アナログでオシレーターが何チャンネルかあり、ミックスしてリサージュ波形を発生させXYスキャナーをコントロールして壁面に絵を描いたり、光路の途中にソレノイドでミラーを出入りさせて天井近くにビーム光を走らせていたりした。たまに前出の図形再生機も使っていた。
 
レーザーのコントロールブースはバーカウンターの上の中二階のようなDJブースの隣にあった。椅子に座ると頭がつかえそうな天井高。まともな階段もなく脚立で上り下りしていた。
 
途中から無くなったような気がするが初めのうちは数分の「レーザーショータイム」があった。誰も教えてくれる人もなくいきなりバイトの学生(私)がやるはめになったのである。相当いい加減だったとは思うがまだレーザー光そのものが珍しかったし4色出ているし多少の拍手くらいは貰えたのだった。
 
ここで夜9時くらいから夜中3時過ぎまで毎日毎日半年以上全く休みなく私のバイトは続くことになる。
 

ちなみにThe Beeは六本木の交差点から飯倉片町の交差点に向かい六本木ピット・インの角を曲がったところにあった。今はどうなっているのかとグーグルマップでストリートビューを見ていたらとんでもないものを発見してしまった。昔のThe Beeの入り口ドアである。当時は分厚いガラスドアだったと思うがドアの形は変わっていない。
ドアを開けるとタイムスリップしてしまいそうでものすごく怖い(笑)。
追記:2017年7月のストリートビューでは室内が使われているらしくドアが半開きだが。。。

2011年1月20日

[adsense]

大学祭・ころがりこんだアルバイト 1978

SC/MP II マイコンを自作した年の11月大学祭があり、私は実行委員の一人として参加した。

イベントの一つとして当時まだ珍しかったレーザーショーを大講堂で行う企画があり、たまたまその手伝いをすることになった。プロの業者さんを呼んだわけだが、そこに来たのが後に私の就職先となる当時はまだ会社になる前の主宰者Yさん。

Yさんが持ち込んだ機材はレーザー本体以外はすべて手作りだった。そんなほとんどアナログな機材の中に、唯一文字や図形をデジタルメモリからD/A出力できるものがあった。

これが私が自作したマイコンと同じように、アドレス入力とデータ入力も確か2進のトグルスイッチでデータは8ビット。再生するときはデータの開始アドレスと終了アドレスをずらずら並んだトグルスイッチで2進設定しクロックをオンすればその間をループで回ってD/A出力できた。メモリはバッテリーバックアップされていたと思う。絵を切り替えるときはどうするか、それは開始アドレスと終了アドレスの並んだトグルスイッチを同時にエイヤッと切り替えるのであった(笑)。

Yさんからそんな機材のかんたんな説明を受けて大体理解できた私が「なるほどこういじればいいんですね」などと話していると「キミ、それ分るの?」と一緒に来ていたAさんに話しかけられた。「ちょっと前にマイコンを自作したんです」と話すと「月末に六本木のディスコにレーザーを入れるんだけどバイトしない?」。いきなりスカウトである。

2011年1月19日