カリフォルニア州 デービス 1 1994

1994年11月、カリフォルニア州デービスに10日間滞在した。

FAA(アメリカ連邦航空局)のシニアリガーライセンスをとるため、1人で実習を兼ねて受験しに行ったのである。
これはパラシュートの整備資格で日本国内には同様の公的資格は無く、USPA(全米パラシュート協会)の規則に従って運営されているスカイダイビングクラブで整備の仕事をするために試験を受けに行ったのだった。より上級のマスターリガーライセンスもあり、日本にシニアリガーは20人位、マスターリガーは5人位いるのではないかと思う。
UAでサンフランシスコまで行き国内線に乗り換えてサクラメント空港からタクシーで目的地に向かった。今では考えられないが当時は機内に喫煙席があり、夜中に機体後方のトイレに行くとギャレーでパーサーたちがタバコをふかしていた。
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私の記憶ではアメリカ国内で向かった先はサクラメントではなくもっとローカルな空港だったと思いこんでいた。というのも、何とも田舎な空港で確か平屋建てだった上にバゲッジの受け取りが屋外の木の棚に荷物が並べてあってピックアップするという、えらいのどかな状況だったから。国内線ターミナルだったせいかもしれない。
タクシーで向かっていくと、広大な畑の上をトラクターではなく小型の複葉機!が往復しながら何か散布している。映画「カプリコン1」でテリー・サバラス扮する操縦士が主人公たちを助けたアレ(予告編の2:30あたりから)である。あぁーアメリカだぁーと実感。ちなみにこれが初海外だった。
私が実習と試験を受けたのはデービスのYolo County Airport隣接するSkyDanceドロップゾーン(スカイダイビング降下場)にあるActionAirというショップ&ロフト(整備工場)だった。クルマにたとえるなら新車中古車販売をしている整備工場といったところだろうか。私が撮影してきた画像と今でもほとんど変わっていない。
Skydance DZ 1994

Skydance DZ 2 1994

ActionAir Loft 1

ActionAir Loft 2

ActionAir Loft 3


そこにFAAの試験官資格を持っているレイ(Ray)さんがいて彼がドロップゾーンのオーナーだった。
パイロットでもありインストラクターでもありリガー(の試験官)でもあった。インストラクターの試験官資格も持っていたかもしれない。スカイダイビングのメッカであるアメリカでもドロップゾーンを経営していくためには1人何役もこなさなくてはならないのだ。


2011年4月 2日

三重メトロヒルズ ショープラザ 2000

2000年に三重メトロヒルズ・ショープラザという不思議な場所に仕事で行ったことがある。そこにはゴルフ場に隣接した天然温泉付きのホテルと隣接したレストランシアターがあり、当時レストランシアターはすでに閉鎖、ホテルは休業中、温泉のみ営業中だった。現在は温泉も閉鎖(このページ下の画像で右に見えているのがレストランシアター)されたらしい。

福山雅治コンサートツアーのリハーサルで閉鎖されたレストランシアターを利用し、ステージに使用された自分が設計製作にかかわった大型LEDスクリーンのオペレーションのために行ったのだった。
リハーサルといっても照明と舞台装置のみのテクニカルリハーサルのためご本人の登場は無し。
このレストランシアターは資料によれば1994年にオープンし、ラスベガス直輸入の「スプラッシュ」というミュージカルを上演していた。出演者・舞台装置全てを持ってきたのである。シズまでアメリカから持ってきたと噂になったらしい(笑)。
タイトル通り水を多用したショーで緞帳の代わりに舞台前面が滝になる仕掛けとか移動式の巨大な水槽とか当時の名残りが色々あり、客席は多くのテーブルを舞台に向かって半円状に囲むように配置されていてロビーには出演者たちのパネル写真がそのまま飾られていた。
リハーサルは数日間行われたのでスタッフたちは隣の休業中のホテルの部屋を使えるようにしてもらい宿泊し、休業中のレストランで食事(給食)を作ってもらっていた。
普通こんな風にシアターが閉鎖されホテルも休業したら潰れそうなものだが、(なぜか)会社にはお金があり経営を続けられているとのことだった。。。
このシアターを使ったリハーサルは2006年にはまだ行われていたようだ。

2011年3月27日

東京でも現在余震が続いている Mar.12.2011

昨日の地震後、ガスが使えなくなった。

メーターで遮断されたかと思いリセットしてみたが復帰しない。
夕方、東京ガスのマイコンメーター関連のページにはほとんどアクセスできなくなっていた。
地域のサービス会社、東京ガスライフバルの電話もつながらない。24時間受け付けなので夜10時過ぎにまた電話してみるとつながった。状況を説明して係員に来てもらうことにしたがいつになるか分らないとのこと。
まぁ翌12日に来てもらえるかな。。。と考えていたら夜12時近くに部屋に来てくれた。エレベーターも止まっているのに素早い対応に感謝である。ガスが出ないのは建物のガスの遮断弁が閉まっているためで、その操作はライフバルでは出来ないとのことだった。
今日は問題なくガスが使えている。マイコンメーターを部屋ごとにリセットしてくれたのだろうか、それとも自動復帰する仕様だったのかな?

2011年3月12日

地震! Mar.11.2011

今午後5時半だがまだ余震で時々揺れている。

東京運河交差点が動作していないのは地震の影響ではない。何と昨日の夜からカメラが故障しているためである。

以前住んでいた超高層マンションでもそうだったが、地震の揺れは建物の固有振動の周期となるので船酔いしそうなゆっくりとした揺れになる。今回の揺れは今まで経験したことのない大きさの揺れだった。
初めのうちは大したことないかと思っていたがだんだん揺れが大きくなってきて部屋のあちらこちらでギシギシ音がし始め、家具は倒れなかったものの本棚の本がかなり落ちキャスター付きの洋服ハンガーなどは倒れた。揺れの激しい時は何かにつかまっていないとよろけそうなほどだった。
棚から落ちて電池が外れて止まった時計。揺れが収まって室内を見てみるとキッチンの壁紙に床から天井まで裂け目ができていた。ゆがみで破れたのだろうか。
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バルコニーに出てみると何か破片が落ちている。見上げるとコンクリートの梁の角が欠けているようだ。こちらもゆがみに耐えられなかったのだろうか。
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2011年3月11日

ハウステンボス ボンボヤージデリーフデ 1992,1993

デイリーハウステンボス 1992年5月14日号これはデイリーハウステンボス1992年5月14日号1面である。当時日刊新聞が出ていたのだ(毎日変更しているページは限られていたとは思うが)。この新聞にイベントについて書かれた部分がある。
まずは昼のグロリアスパレード(デ リーフデ帰国凱旋パレード)、次に夜7時からのミュージカル・ボン
ボヤージ デ リーフデ(デ リーフデの出航)、そしてサウンドギャラクシー。画像クリックで拡大。

デイリーハウステンボス ハウステンボスの3大イベント

1992,93年に上演されたボンボヤージ デ リーフデはハウステンボス最大規模(約80名のキャスト)のミュージカルだった。以下は93年に撮影した上演中のミュージカルと上演後帰っていく出演者の画像。

ボンボヤージ デ リーフデ 1

ボンボヤージ デ リーフデ 2

ボンボヤージ デ リーフデ 3

ボンボヤージ デ リーフデ 4

1994年にデ リーフデ物語というミュージカルに変わった。ボンボヤージ デ リーフデが主にオランダからの出航シーンを描いているのに対し、デ リーフデ物語は日本に到着した後の乗組員と日本の大名たちにスポットが当てられている。これらのミュージカルに関してはのちにイースタンオデッセイが始まった時のスタッフブログでもふれられている。以下は94年に撮影したデリーフデ物語。

2011年3月 5日

アスキーネットから来た手紙 1986

アスキーネットには1985年のID4けた時代から参加していた。

初めのころは300ボー(300bps=ビット・パー・セコンド)の電話機カプラで接続した。エプソンが初めて低価格で発売したCP-20だったと思う。そんなスピードでも1バイト文字列のやり取りなら結構使えたのである。当時ネット上の日本語は半角カナ文字だった。

漢字はPCに漢字ROMが載っていないと使えなかった時代である。

会員が増えてIDが5ケタになった後、1986年10月にその手紙はやって来た。

ネット上で不正行為を働いたのでアカウントを1カ月停止するというのだ。「えええっ?」身に覚えのない私は何回か手紙(ネットは止められているし(笑))のやり取りをしたが結局理由が何だったのかは分らずじまい。ウィキペディアにあるように当時のシステムは初歩的であり、ネットユーザーがちょこちょこっとコマンドを打ちこむだけでシステムに入れてしまうような状態だったと思う。今考えれば知り合いとのチャットか掲示板でのやり取りで何か教えてもらったことを無意識で試したのかもしれない。

このメールと一緒に、1987年5月9日亀戸の東京平安閣で行われたアスキーネットユーザーのイベント(オフ会)で撮影した写真が出てきた。「アスキーネット一刻」とかそんな感じのイベント名だったかな。

壇上の方々はアスキーの担当者や掲示板のSIGオペだと思う。さて、これを覚えていらっしゃる方がどなたかここを覗かれますかどうか。。。

2011年3月2日

戸川純・レーダーマン アーム・ヘッド電飾 製作中画像 1984

古い写真アルバムを見直していたらこんなものも。

レーダーマンアーム・ヘッド電飾製作中の画像である。
ツアーで持ち歩けるようトランクに一式収まるようにした。
前にも書いたがアームは他の方が作られたもので、楽器のパーツやばねなどが組み合わされ取り付けられている。
1枚目の画像、アームの奥にふたを開けたコントロールボックスが写っている。画像クリックで拡大。
 レーダーマンアーム電飾取付作業中 1レーダーマンアーム電飾取付作業中 2
 
レーダーマンカチューシャ電飾取付作業中
 レーダーマンアーム運搬トランク外観


2011年2月28日

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾プレゼン画面

武道館でのオペレーションは、舞台背面の電飾ブロックを模したLEDモニタでパターンを確認していてCRT画面上には描画していなかった。CRTに描画したことはなかったかなと考えていたら、CRT画面をポラロイド(SX-70)で撮影したプリントが沢山出てきた。

まずCRT上でパターンが点滅するようなソフトを組んで、次にパターンをI/Oポートに出力するように変更したのかもしれない。同時にCRTでパターンのイメージをプレゼンしていたようだ。

こんな感じでパターンを変化させていけますよというイメージのためだけにCRTに描画させて、プレゼン資料で持っていくためにポラロイドで撮影したと思う。当時はそれが最も手っ取り早い方法だったのだろう。

1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 1
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 2
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 3
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 YMOロゴ
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 4
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 5
1980YMO武道館コンサート電飾プレゼン画像 6


2011年2月28日
2017年8月16日修正

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート進行表

このブログのネタになるかと思い古い写真アルバム類を見直していたら、思いもよらないものがいくつか出てきた。

まずは1980年YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートの進行表である。
これは以前載せたこの画像のキーボード左に置かれた紙そのものだと思う。
やはり12月27日だけアンコール以降の曲目が異なっている。
ただ以前書いた「COSMIC SURFIN」が12月27日だけという私の記憶は間違っていて、全日演奏されていたことが分かる。コンサートのリハーサル以降初日前に電飾パターンを手直ししたのか12月27日だけ別バージョンとしたのか覚えていない。
12月24~26日用の進行表に「マイクロコンポーザー?」と書きこまれている箇所があるが、これらの曲を松武さんからタイミング信号をもらって同期させようとしたのかもしれない。下のほうに松武さんの連絡先が記入されている。私の打ち合わせした記憶はこの時のものかもしれないが、コンサート直前(リハーサル時?)では同期できなかったのも当然だろう(笑)。画像クリックで拡大。
1980 YMO武道館ライブ進行表 12月24日~26日
1980 YMO武道館ライブ進行表 12月27日


2011年2月27日

万博みたいなアトラクション 志摩スペイン村 1995

1995年のクリスマスシーズンに志摩スペイン村へ遊びに行ったことがある。

私は担当しなかったが勤務先が仕事で関係していた。“ドンキーズシェリー”に出てくる巨大ロバの目からレーザーを出す仕掛けである。オリジナリティという意味ではこのアトラクションはかなりきていた(笑)と思う。
タイトルにあるのは”ミュージカルサーカス”のことである。乗ってみて「こりゃまるで万博のパビリオンみたいだなぁ」と思った。円形の客席に案内されるのだが、これがまんま60人乗りのライドなのだ。最初の円形シアターの中を回転しながら見終わると客席全体がシアターの地下?まで下降し平行移動し上昇すると次のシアターの中にいる。。。という仕掛けで計4つのシアター内を移動するのである(動画)。
このやりすぎとも思える異様に大掛かりな装置に感心した。客席が上下してシアターに入ったり回転したりってまるで大阪万博へのオマージュ。東芝IHI館しかり虹の塔しかり(ちょっと違うけど)三井グループ館しかり。
このアトラクションは現在は別なものになっている。シアター内の人形たちのメカや何といってもあの客席の移動装置のメンテナンスは大変だったのではないだろうか。