白鯨最高! 2021

11/16ナガシマスパーランド白鯨に乗ってきた。

まずは愛知県美術館曽我蕭白展を観に行く。府中市美術館で観た動物の絵展にあった曽我蕭白の鯉の絵が異様な迫力で、検索したら愛知県美術館が出てきたから。

それを観たあとナガシマスパーランドに向かった。当然お目当てはスチールドラゴン2000と白鯨。初ナガシマスパーランド。バスで近づくと園内の端にウルトラツイスターがある!懐かしい、これも乗っとかなきゃ。午後3時過ぎに入園する際午後5時閉園と念を押される。これは効率良く乗らないと、とスチールドラゴンに着くと何とかなり待ち行列が出来ている!1000円の乗車優先券を買う(笑)。

スチールドラゴンの後白鯨に向かうと何だか人影が無い、まさか終了じゃないよねと乗り場に向かうと何とガラガラなのだった。ええ~? 乗車しあまりに面白いので出口→入口直行でもう1回乗る。

スチールドラゴンと白鯨、スチールドラゴンはとにかく凄すぎる。初スチールドラゴンにして何と最後尾席という強力な体験でなにしろファーストドロップ中ずっと体がシートから浮いている。上昇に転じると強烈なG。凄すぎて楽しめない。楽しくなってくるのはループ後アップダウンを繰り返す直線に入ってからだった。

白鯨は乗車すると腰骨あたりをベルトとラップバーでガッチリ押さえつけられ脛当てで脚も固定、下半身全く自由が無くなりこれからどれだけ振り回されるのかとじわじわくる。発車すると巻上げまでの間コブが連続し左右にも振られ只者でない感全開。巻上げ後も直ぐにファーストドロップにならず一旦少し下ってスピードを得た後、少しホップしてファーストドロップに入る憎い演出。

もうその後は楽しい楽しい、思わず「ヒャッホー」と声が出る!あの90度横倒しはどうかなと思っていたが不自然でなくひねれる感じ。そしてひねりながら落下するのは味わったことのない感覚だ。とにかくなめらかで上下反転も小径のコークスクリューも体に負担なく気持ちいい。またこちらの素晴らしい白鯨紹介ページに書かれていて気付いたのだが、途中で一度もブレーキがかからないのでテンションが途切れない。

ここで午後4時半近く、急いでウルトラツイスターに向かう。客1人(私)係員1人。昔後楽園で乗って以来。今でも十分面白い。垂直巻上げが効いてるしファーストドロップは最初90度下向きになるし座ったおヘソの辺りを中心に連続回転するのはコレだけ(過去にはこういうのもあったようだが)。出来たらスイッチバックしないコースのウルトラツイスターにも乗ってみたい。

閉園アナウンスが流れるなかもうこれで帰るかと出口に向かっているとこれまた懐かしいシャトルループがある!ついフラフラと乗ってしまった。大昔横浜ドリームランドに出来たとき乗ったのが最初。リニア駆動じゃ無いフライホイール式ならではの強引なスタート。1回目ループ後の登りが結構高い。乗車後出口に向かうカップルが「何でもなめたらあかん」と話していたのが面白かった。そう、だからコレも生き残っている!

ハウステンボスを走っていたクルマ 1992~1994

ハウステンボスで撮影したクルマの画像を集めてみた。

ハウステンボス クラシックバス 1

ハウステンボス クラシックバス 2
ハウステンボス 日産エスカルゴ


これら3枚はオープン前、’92.2.23に撮影

さすがにバスもピカピカ。
3枚目は日産エスカルゴに安っぽいボンネット+グリル風をくっつけたもの。青いボディだけで素敵なのに。。。
ハウステンボス 救急車 クラシックバス
ハウステンボス クラシックパトカー デリバリーバン
救急車やパトカー、デリバリーバン等の働くクルマたち。
上右はアムステルダムから。
htb_car10.jpg
上の画像、自分の足が写りこんでました。失礼。デンハーグから。

ハウステンボス ガスステーション

ハウステンボス 日産フィガロ
左・ハウステンボス内のガスステーション。クラシック(ルック)タクシーが給油中。
右・おなじみフィガロ
市販車にない原色カラーが魅力的。
ハウステンボス ロータスセブン

1992年5月マリンターミナルの前に停まっていたロータス・セブン(ケーターハム・セブン?)。ドンカーブートではなさそうだ。
なぜこのクルマが園内専用車になったのか謎だが、21年後の現在でも生き残っている(こんな感じで置かれている?)ところを見ると元は取れているかな(笑)。

2013年8月30日

ハウステンボスのオープニングCM 1992

ハウステンボスのオープン時、サウンドギャラクシーに仕事で関わったことなどを以前書いたが、ふと、ハウステンボスのオープニングCMを思い出した。あのピーター・オトゥールの出演したCMである。

バブルの余韻十分のキャスティングと雰囲気。
なんとYouTubeに動画があった。 運河編は覚えていたが、街並み編は記憶に残っていなかった。
このCMが撮影された時ホテル・ヨーロッパでは「ミンボーの女」が撮影中であり、監督の伊丹十三映画で共演したことのあるピーター・オトゥールと再会し旧交を温めた、と「ミンボーの女」のパンフレットに書いてあった(はず)。
 
この後、スティングが出演したシーガイアCMとバブル期リゾートCMの双璧をなしていると思う。

2013年8月18日

 
2013年12月追記
ピーター・オトゥール氏が亡くなられた。自分にとって意外だったのは、氏がまだ81歳だったこと。
上記のハウステンボスCM出演時は59歳だったことになる。演出上だったかもしれないが、もっとずっと老年のように見える。
 

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ハウステンボス ボンボヤージデリーフデ 1992,1993

デイリーハウステンボス 1992年5月14日号これはデイリーハウステンボス1992年5月14日号1面である。当時日刊新聞が出ていたのだ(毎日変更しているページは限られていたとは思うが)。この新聞にイベントについて書かれた部分がある。
まずは昼のグロリアスパレード(デ リーフデ帰国凱旋パレード)、次に夜7時からのミュージカル・ボン
ボヤージ デ リーフデ(デ リーフデの出航)、そしてサウンドギャラクシー。画像クリックで拡大。

デイリーハウステンボス ハウステンボスの3大イベント

1992,93年に上演されたボンボヤージ デ リーフデはハウステンボス最大規模(約80名のキャスト)のミュージカルだった。以下は93年に撮影した上演中のミュージカルと上演後帰っていく出演者の画像。

ボンボヤージ デ リーフデ 1

ボンボヤージ デ リーフデ 2

ボンボヤージ デ リーフデ 3

ボンボヤージ デ リーフデ 4

1994年にデ リーフデ物語というミュージカルに変わった。ボンボヤージ デ リーフデが主にオランダからの出航シーンを描いているのに対し、デ リーフデ物語は日本に到着した後の乗組員と日本の大名たちにスポットが当てられている。これらのミュージカルに関してはのちにイースタンオデッセイが始まった時のスタッフブログでもふれられている。以下は94年に撮影したデリーフデ物語。

2011年3月 5日

ハウステンボス港に入港していた船 / 失われた船 1992,1993

ハウステンボス関連画像を探してアルバムを開いていたら懐かしい画像が出てきた。

まず博多-ハウステンボス間を結んでいたジェットフォイル“ビートル”である。博多からハウステンボスまで一度乗船したことがある。1994年に航路が廃止となった。画像クリックで拡大。
ハウステンボスに入港するビートル 1
ハウステンボスに入港するビートル 2
ビートル テレホンカード
次はハウステンボス-オランダ村間を結んでいた”ワーペンファンホールン“。”アメリア”(現在の姿)が1993年に登場してからしばらくは2隻とも就航していた。オープンエアの2階席が爽快だった。2001年に関門汽船に買い取られ門司港に係留され船上レストランとなっている。現在も無事に営業しているようだ。
右の画像にはハウステンボス港に入港しようとしている”ワーペンファンホールン”と”ビートル”が写っている。1992年、ハウステンボスオープンから2年間(2年以下?)しか見られなかった風景である。
ワーペンファンホールン
ハウステンボスに入港するビートルとワーペンファンホールン


最後にオランダ村”プリンス・ウィレム”の後姿。2003年10月21日ランダ村を離れオランダデンヘルダー港に係留中2009年7月30日火災で焼失した。こちらのブログでは再建計画にふれているがどうなっているのだろう。

オランダ村のプリンスウィレム
2011年2月14日

ハウステンボス サウンドギャラクシー 3(音の銀河) 1992

サウンドギャラクシーのショープログラミングは1992年2月オープン前の現地で行われた。オレンジ広場にプログラム用のコンテナハウスが置かれ、スタッフがプログラミング用PCやコンソールを持ち込んだ。

なにしろ暗くならないと始められないので、夜7時から夜中2~3時ころまで5,6日連続で行われたと思う。夜中は寒くて地面に引いたマルチケーブルが霜でカチカチになっていたのを思い出す。終わってから佐世保のホテルに戻り午後まで寝て、夕方またハウステンボスにやってくる生活だった。部屋の清掃・ベッドメイクで起こされるのがかなわんとタオルだけ変えてくれればいいから、などとホテルに掛け合ったような気がする。
照明・レーザー・街の電飾など光の演出は吉井澄雄さん。照明界では当時すでに大御所だが、大変気さくで分りやすく指示を出していただいた。現在もご活躍中でいらっしゃるようだ。
あまり知られていないと思うがサウンドギャラクシーには曲が2つあった。ほとんどの方の記憶に残っているのをA曲とすると、知られていないB曲があったのだ。A曲よりも現代的な感じだったと思う。ショープログラムはそれぞれの曲用にちゃんと2つ作られた。ハウステンボスオープン当時はA,B日替わりでショーが行われていたか、そもそもBはお蔵入りだったか記憶が無い。
プログラミング最終日に冨田勲さんが差し入れの日本酒を抱えて現場に見えられた。神近義邦氏が書かれて1994年に出版された「ハウステンボスの挑戦」ISBN4-06-206407-3の164~165ページに以下のような記述がある。
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平成四年の二月、港町ではサウンドギャラクシーのシミュレーションが繰り返されていた。夜十時半、凍てつくような寒さの中で、吉田直哉さんと冨田勲さん、それに光のスペシャリスト吉井澄雄さんが日本酒の一升瓶から茶碗酒をあおりながら仕事を続けられているのをよくお見かけした。
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なんだかこれだと毎日飲んでいたみたいだが(笑)最終日、仕事終わりで乾杯しただけである。
サウンドギャラクシーはなんと2003年まで続くことになった。あの規模のライトショーが国内で連日10年以上続いたのは珍しいことだと思う。ただ後年はメンテナンスが十分といえず、スタート時の状態が100%再現されているとは言えなかったのが惜しまれる。
以下はサウンドギャラクシーのショープログラミング中にハウステンボス内で撮った画像である。パレードのリハーサルが行われたり、まだ工事車両がたくさんいて工事中の個所があることが分かる。
ハウステンボス開業前風景 1

ハウステンボス開業前 パレードリハーサル

ハウステンボス開業前風景 2

私自身ハウステンボスのファンでもあり7,8回訪れたが2004年以降行っていない。お気に入りのアトラクションだったクリスタルドリーム大航海体験館が無くなってしまったこと、部屋からの眺めと海に面した明るいレストランが好きだったホテルデンハーグが閉まっているのが残念。一時期行われていた大村湾でのパラセーリングを体験できたのが良い思い出である(ルフティは強風で乗り損なった(笑))。

2011年2月7日

ハウステンボス サウンドギャラクシー 2(音の銀河) 1992

サウンドギャラクシーで使用されたサーチライトはロボサーチで、シャッターによるON/OFF、パン・チルトの位置制御、フィルタースクロールによる色変えなどがDMXでコントロール可能だった。

このサーチライトはハウステンボス内だけでなく、対岸にも確か4台ほど設置されていた。
地図から推測すると西泊ノ鼻だったと思われる。
このコントロールは専用回線とモデムで行われていたと記憶している。やや分かりにくいが前回リンクした画像のサウンドギャラクシー1と2の中央付近にある2つの光源の左側がそれである。ショーの行われる日は(つまりほとんど毎日だが)スタッフが行き防雨カバーの付け外しやメンテナンスを行っていたはずだ。
私が持っていたサウンドギャラクシーの画像が出てきた。リハーサル時のものだとおもわれる。
画像クリックで拡大。
ハウステンボス サウンドギャラクシー 1 
ハウステンボス サウンドギャラクシー 2 
ハウステンボス サウンドギャラクシー 3

2011年2月 7日

ハウステンボス サウンドギャラクシー 1(音の銀河) 1992

1992年3月にオープンするハウステンボス夜のライトショー「サウンドギャラクシー」のレーザーを勤務先が担当することになり、私は制御系のハードとソフトを製作することになった。

PC-9801を4台使い、1台をマスターコントローラーとしてコントロールルームに、残り3台をスレーブコントローラーとして3か所のレーザー光学台に配置した。各コントローラー間はRS-485ラインと、安全のために独立したレーザー光シャッター用ラインで結んだ。
マスターコントローラーはSMPTEタイムコード信号に同期してタイムライン上の制御データをスレーブコントローラーに送り、スレーブコントローラーはそれに従いXYスキャナーにアナログ図形データを出力した。マスター、スレーブともMS-DOS上のTurbo Pascalでアプリケーションを作成した。CP/M時代にPascalMT+やCP/M版Turbo Pascalを利用していて慣れていたし開発環境が使いやすかったからである。ちなみにPascalMT+はROM,RAM領域を定義できたのでZ80や64180組み込み用にも使えて便利だった。
レーザーはアルゴンレーザーを使用し、複数台の出力を合成することによりセンターは出力20W、左右は出力8Wだったと思う。

コントロールルームはオレンジ広場ビッケンビッケンの2階だった。ハウステンボスのページを見たらビッケンビッケンは健在である(笑)。マルチトラックテープレコーダー2台や音響・照明・レーザー各制御用のラックで室内はぎっしり埋まっていた。今なら当然SSDやSDHCカードなんかに入れたマルチトラック音源を出力させるところだろうが、当時はテープを回していたのだ。

2011年2月 6日