東京市立山谷堀尋常小学校の卒業アルバム 1941

父の東京市立山谷堀尋常小学校卒業アルバム(昭和16年)である。写真は印刷ではなく全て写真プリントが張り付けてあり、写真が両面張り付けてある黒厚紙と集合写真の氏名を両面に印刷した薄い紙が交互に綴じられている。

まず校長先生礼服の立派さに驚く。そして校長先生は集合写真ではシルクハット!を手にしている。

先生方の集合写真ではポケットに手を入れたポーズの先生もいて、この時代とはいえ個性的な先生もいたようだし女性の先生が10人いる。

クラスは男子2クラス、女子2クラス、男女1クラスで人数が多い。男一組が59名、男二組が54名、女一組が63名、女二組が60枚、男女組が53名、合計289名である。本来なら男女別にしたかったが6クラスは組めず男女組を作ったのだろうか?

男子は全員坊主で、全員同じ制服かと思ったが数人制服でない生徒がいるしシャツの襟を出していたりいなかったりそれほどうるさくなかったようだ。女子はもっと個性的でおかっぱ頭の子が多いがそうでない子もいるし、セーラー服もスカーフがバラバラで中にはずいぶんおしゃれな服の子もいる(記念撮影用だったかもしれないが)。

最後のページはおそらく集合写真に参加できなかった子たちだろう。女子二人はなぜか集合写真には居なかった着物姿である。面白いのは一緒に写っている女性の新木先生が集合写真では正装の着物姿なのに、この写真では普段の教壇姿らしいところ。

昭和16年、この年の4月から尋常小学校は国民学校初等科に名前を変え戦時色が強くなり、年末に太平洋戦争が開戦。これは尋常小学校として最後の卒業アルバムでもある。

東京市立山谷堀尋常小学校で検索していたら、父より3つ年上の女性がこの小学校に通っている頃のことを書いた手記があった。この女性の息子さんがブログに載せたもの。この時代の雰囲気がよく伝わってくる。掲載に感謝である。

この卒業アルバムから4年後、昭和20年3月10日の東京大空襲でこの小学校を含む今戸全域は焼失してしまう。父と祖父はこの小学校(その時は国民学校)に避難し運よく助かった

東京市立山谷堀尋常小学校跡地は戦後都立台東商業高校となり、現在は都立浅草高校になっている。記念碑が建っているが今回こちらのページ(下方にスクロール)で記念碑の裏面を見て、3月10日の空襲後廃校となっていたことを初めて知った。焼け野原の中で建物は廃墟と化し、先生、生徒とも亡くなられたり避難や疎開などで散り散りとなり学校再開は到底不可能だったのだろう。

山谷堀尋常小学校

明治四十二年九月 創立

大正十二年九月  関東大震火災

昭和二十年三月  太平洋戦災

仝        廃校

昭和二十三年   台東商業高等学校創立

1945~1950年に撮影されたこの地域の航空写真。中央少し上が旧山谷堀尋常小学校、右下が隅田川で左上に向かって山谷堀が伸びている。山谷堀尋常小学校の右側の今戸神社や、小学校の真下、山谷堀対岸の待乳山聖天はまだ再建されていない。

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今戸幼稚園(今戸神社の幼稚園)の卒業(卒園)アルバム 1962

今や縁結びのご利益でTVドラマにまで登場するようになった東京台東区今戸の今戸神社

今戸神社の境内にはその昔神社経営の今戸幼稚園があり、私はそこに通っていた。卒業アルバムには「昭和三十七年三月 第六回 そつぎようきねん」とあるので最初の卒業生は昭和三十二年で、その子たちが2年保育だったとすると幼稚園ができたのは昭和三十年ということになる。

当時浅草、花川戸、今戸のあたりは皮革、靴、履物関連の町工場、問屋、メーカーなどのおそらく全盛期で、私の父は靴の木型職人だったし小学校にも家が店や問屋や町工場の同級生が多く、なかには鼻緒問屋の息子という渋い家業の子もいた。働く若い世代が多く子供もたくさんいたのである。

アルバム写真を見ると境内のかなりの面積を占めていたことが分かる。アルバム内の建物写真とストリートビューを比較してみると、

今戸幼稚園 正門 1962
幼稚園正門

正門は今でも残る。

今戸神社境内から見た今戸幼稚園 1962
今戸神社境内から見た幼稚園

園庭のイチョウの木が現在絵馬に囲まれている。幼稚園の柵の角がストリートビュー石畳通路の角と思われる。

以下卒業アルバム、先生方の顔写真ページとクラス別ページ(2クラス)は不掲載。

最後の写真ページに京成谷津遊園への遠足写真がある。潮干狩りの最中雷雨となりあわてて陸へ引き返したのを覚えている。ちなみに園長先生と先生方が仲良く写る写真の背景は谷津遊園の海上コースター

しかし我ながら昔の子供たちだ(笑)。そりゃあ58年前だもの。