YMO The Beeライブ画像 1979

The BeeにYMOがやって来た 1979 の中で、このライブ(YELLOW MAGIC SHOWと題された関係者向けショーケースライブ?)の画像や動画があったら見てみたいと書いたが、自分で持っていた(笑)。といっても雑誌GOROの「テクノ・ポップス」特集記事(文・北中正和)内の小さなカットである。

このカットに撮影データはついていないが、背後にレーザーが投影されているディスコのダンスフロアでのYMOライブといえば”The Bee”しかない。ページだけ外してとってあったのでいつの号かは不明。綺麗じゃないのはご勘弁を。クリックで拡大。

YMOatTheBee.jpg

背後のリサージュ波形は赤のようだが上のライン(レーザーで面を出していたかな)でクリプトンレーザーの4色であることがわかる。

これ自分がオペレートしてたんだなぁ(遠い目)。

このステージはキーボード・マガジン1980年5月号の表紙にもなっている。雑誌GOROの画像はなぜか裏焼きだった。

2014.2.12 追記

2003年に”Weekly YMO web magazine”なる有料メルマガがあったことを今日知った(笑)。

その中にこのライブも取り上げられており画像があったかもしれない。

メルマガ目次                    10 11 12

おまけ

“The Bee”の原始的レーザー図形再生機で使用していた”The Bee”のロゴデータシート。

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2014年2月9日

ナック マイ・シャローナ 1979

The Beeで半年くらい全く無休で働いた後、知り合いを引っ張り込んでThe Beeから抜け出しつつあったころ、私はYさんの会社でレーザーディスプレイ機材の製作の手伝いを始めた。

会社と言ってもYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家だった。ハウスは今でも住み続けられているようだ。
そこで4,5人のスタッフの一人として働いていたのだが、何しろ自宅から遠く通えない距離だったので私ともう一人は空いているベッドルームを使って泊りこんでいた。月曜に行って金曜に帰ってくるみたいな感じだったと思う。食事はYさんとYさんの家族といっしょで半ば住み込みか。
機材をクルマに載せ中央高速を走って都内まで仕事に行く時、カーラジオはいつもFENだった。今では信じられない話だが当時ラジオで洋楽が聞きたければFENだった。そしてその頃いつも流れていたのがナックマイ・シャローナ。当時の思い出と強烈に結びついている。すでに亡くなられたメンバーもいるんですね。。。
なんと歌のモデルとなったシャローナさん本人がちゃっかり自分のウェブサイトでも流している。
ある日The Beeでのイベントの仕事が日曜の明け方近くに終わり、ドロドロに疲れてクルマで帰る途中夜も明け、朝6時ころ男3人ファミレスで朝食となった。入って席に着くと満面の笑みをたたえた店長らしき男性がメニューを持ってきて一言「これからおでかけですかぁー?」。確かに日曜だし、釣りに出かける3人組にでも見えたんだろうけど。。。コントのようにコケル3人だった(笑)。

2011年4月13日

The BeeにYMOがやって来た 1979

1979/6/18(正確な日付は今回検索して知ったのだが(笑))The BeeでYMOのライブが行われた。
この日も私はレーザーのオペレーションをしていて、ライブ中ステージ背後のスクリーンにリサージュ図形を出したりしていた。リハーサルはしたのだろうか、したような気はする。
このライブの画像や動画が残っているならぜひ見たいものだが、個人で持てる小型ビデオデッキ一体型カメラなんて無い時代だから残っていてフィルム画像だろうか。
私はキーボードが橋本一子さんだったと思っていたがこちらのページによればその時のキーボードは矢野顕子さん。

この後またYMOと仕事で関わることになるとはまだ知る由もなかった。

2011年1月23日

六本木 The Bee 1978 続き

The Beeの(当時私は店長と思っていた)プロデューサーは岡田大貮氏、30年以上ぶりに拝見しとても懐かしい。

たまに貸切イベントが開かれることがあり、今でいうショーケースライブのようなライブが行われることもあった。ファッション系イベントのときトイレに行ったら隣に三宅一生氏がいたなんてことも。

TV・雑誌の取材もたまにあり、TV取材では「独占!女の60分」や「出没!!おもしろマップ」など。「女の60分」はレポーター役の女性がレーザーのオペレーションをするという企画だったのを覚えている。

店が終わるのは夜中3時過ぎ、バイトのウエィターさんは始発まで待っていたようだが私はなんと毎日タクシーで帰っていた。片道3000円くらいだろうか?半年以上それを続けていたのだ。DJに「近くに部屋借りたほうが安いよ」といわれたがもっともである。

2011年1月21日

六本木 The Bee 1978

1978年の11月末~12月位にそのディスコはオープンした。六本木The Beeである。

そこに前出のYさんが製作したレーザーディスプレーシステムが設置されたのだ。
私をスカウトしたAさんはレーザー導入にあたってコーディネート的なことをしていたと思う。
確か「東洋初のレーザーディスコ」なんてネーミングもあった気がする。今聞くとすごいネーミングだけど。
 
SP製のクリプトンガスレーザーを光源にして青・緑・黄・赤4色に分光していた。2~3W位は出ていたと思う。コントロール卓は完全アナログでオシレーターが何チャンネルかあり、ミックスしてリサージュ波形を発生させXYスキャナーをコントロールして壁面に絵を描いたり、光路の途中にソレノイドでミラーを出入りさせて天井近くにビーム光を走らせていたりした。たまに前出の図形再生機も使っていた。
 
レーザーのコントロールブースはバーカウンターの上の中二階のようなDJブースの隣にあった。椅子に座ると頭がつかえそうな天井高。まともな階段もなく脚立で上り下りしていた。
 
途中から無くなったような気がするが初めのうちは数分の「レーザーショータイム」があった。誰も教えてくれる人もなくいきなりバイトの学生(私)がやるはめになったのである。相当いい加減だったとは思うがまだレーザー光そのものが珍しかったし4色出ているし多少の拍手くらいは貰えたのだった。
 
ここで夜9時くらいから夜中3時過ぎまで毎日毎日半年以上全く休みなく私のバイトは続くことになる。
 

ちなみにThe Beeは六本木の交差点から飯倉片町の交差点に向かい六本木ピット・インの角を曲がったところにあった。今はどうなっているのかとグーグルマップでストリートビューを見ていたらとんでもないものを発見してしまった。昔のThe Beeの入り口ドアである。当時は分厚いガラスドアだったと思うがドアの形は変わっていない。
ドアを開けるとタイムスリップしてしまいそうでものすごく怖い(笑)。
追記:2017年7月のストリートビューでは室内が使われているらしくドアが半開きだが。。。

2011年1月20日

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大学祭・ころがりこんだアルバイト 1978

SC/MP II マイコンを自作した年の11月大学祭があり、私は実行委員の一人として参加した。

イベントの一つとして当時まだ珍しかったレーザーショーを大講堂で行う企画があり、たまたまその手伝いをすることになった。プロの業者さんを呼んだわけだが、そこに来たのが後に私の就職先となる当時はまだ会社になる前の主宰者Yさん。

Yさんが持ち込んだ機材はレーザー本体以外はすべて手作りだった。そんなほとんどアナログな機材の中に、唯一文字や図形をデジタルメモリからD/A出力できるものがあった。

これが私が自作したマイコンと同じように、アドレス入力とデータ入力も確か2進のトグルスイッチでデータは8ビット。再生するときはデータの開始アドレスと終了アドレスをずらずら並んだトグルスイッチで2進設定しクロックをオンすればその間をループで回ってD/A出力できた。メモリはバッテリーバックアップされていたと思う。絵を切り替えるときはどうするか、それは開始アドレスと終了アドレスの並んだトグルスイッチを同時にエイヤッと切り替えるのであった(笑)。

Yさんからそんな機材のかんたんな説明を受けて大体理解できた私が「なるほどこういじればいいんですね」などと話していると「キミ、それ分るの?」と一緒に来ていたAさんに話しかけられた。「ちょっと前にマイコンを自作したんです」と話すと「月末に六本木のディスコにレーザーを入れるんだけどバイトしない?」。いきなりスカウトである。

2011年1月19日

初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978

雑誌トランジスタ技術1977年10月号~1978年1月号に「◎マイコンピューターをつくろう SC/MPによるマイコン入門」という製作記事が掲載された。当時大学の映画学科の学生だった私はこの記事を見て作ってみたくなり、1978年初め頃ほぼ記事と同じ形で製作したのだった。アキバでパーツを買い集め、生まれて初めて多数の半田付けをどうにかこなして大きなトラブルもなく、マイコンは無事動いた。当時パソコンという言葉はまだなくて、マイクロコンピューターと「私の」をかけてマイコンと言っていたと思う。

SC/MP-II 8ビットCPUにメモリ256バイト、モニタROMもキーボードもなくアドレスとデータそれぞれ8個のトグルスイッチでプログラムを2進入力、出力表示も8個のLEDというものだった。とはいえこれをいじったおかげでコンピューターのなんたるかを直感的に理解できたと思う。ついでに2進-16進変換もそらでできるようになったし(笑)。
このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
そのあとシャープ製SM-B-80Tシリーズを買ってグラフィクスプログラミングをしたり、アメリカから通販で買ったCP/M用ボードにジャンクの8インチ(ベルトドライブ!)フロッピィドライブをつなげたり、APPLEIIコピー機(非合法!)に純正のフロッピィードライブ(カムドライブ!)をつなげたり、白黒MACを買ったり、PC-8001でプログラムしたり(順番がごちゃごちゃですね)して結局PC-9801シリーズへ収束したのだった。
話を戻して、そもそも映画学科の学生だった私がどうしてマイコンを作ろうと思ったかといえば、当時学校でスライドによるマルチディスプレーシステムをいじくっていて、これは1画面あたり2台のスライドプロジェクターを使って4画面とか8画面とかのディスプレーをするもの。1画面あたり2台あるので交互にフラッシュさせたりフェード出来たりした。この後キューブ状のCRTを積んで表示するシステムへ変わっていくわけだが、スライドも1990年くらいまでは使われていた。で、このコントローラーが紙テープを読み込んで動作するものだったのである。紙テープに動作を時間軸に沿ってパンチ穴でプログラミングしてコントローラーの紙テープリーダーにかけると、時間に沿ってプログラムを読み込みプロジェクターをコントロールする。

これをマイコンで出来ないかと思ったのがきっかけだったような気がする。きっとそういう製品もあったと思うけど。

さて、マイコンを作ったことがこのあと私の進路を決めることになろうとは。。。

2011年1月18日