エレクトロ・オペラ in 武道館 パンフレット 1979

1979年11月19日に武道館に観に行った「エレクトロ・オペラ in 武道館」のパンフレット。B4サイズ(見開き514mm*364mm)の大判サイズ。価格は載っていないので入場者に配られた物だったか?

YMO The Beeライブ画像 1979

The BeeにYMOがやって来た 1979 の中で、このライブ(YELLOW MAGIC SHOWと題された関係者向けショーケースライブ?)の画像や動画があったら見てみたいと書いたが、自分で持っていた(笑)。といっても雑誌GOROの「テクノ・ポップス」特集記事(文・北中正和)内の小さなカットである。

このカットに撮影データはついていないが、背後にレーザーが投影されているディスコのダンスフロアでのYMOライブといえば”The Bee”しかない。ページだけ外してとってあったのでいつの号かは不明。綺麗じゃないのはご勘弁を。クリックで拡大。

YMOatTheBee.jpg

背後のリサージュ波形は赤のようだが上のライン(レーザーで面を出していたかな)でクリプトンレーザーの4色であることがわかる。

これ自分がオペレートしてたんだなぁ(遠い目)。

このステージはキーボード・マガジン1980年5月号の表紙にもなっている。雑誌GOROの画像はなぜか裏焼きだった。

2014.2.12 追記

2003年に”Weekly YMO web magazine”なる有料メルマガがあったことを今日知った(笑)。

その中にこのライブも取り上げられており画像があったかもしれない。

メルマガ目次                    10 11 12

おまけ

“The Bee”の原始的レーザー図形再生機で使用していた”The Bee”のロゴデータシート。

beelogo1.jpg
beelogo2.jpg
beelogo3.jpg
beelogo4.jpg

2014年2月9日

大越電機工業製作所の販売基板で製作したCRTターミナル 1979頃

NIBL BASIC ROMを買ったのは東急ハンズだった! 1978 の中で書いた自作CRTターミナルに使用した基板の資料が出てきた。

購入した基板と一緒に送られてきた回路図その他である。まず、コピーが青焼き。
大越電機工業製作所 雑誌広告
これはトラ技の広告原稿そのものと思われる。
左側の22,23,24番3枚の基板を購入した。
大越電機工業製作所のウェブページ
両面基板作成可能だがスルーホール無しというのはこの当時と同じ。ガーバーデータ受付なし、短期間作成も不可と我が道を行ってます。
あれ?更新日2008年6月1日で「現在、受注を中止しております」だって?
(22)CRTディスプレーキャラクター用基板
大越電機工業製作所 CRTディスプレーキャラクター用基板回路図
22ptn2.jpg

(23)CRTディスプレーコントロール用基板
大越電機工業製作所 CRTディスプレーコントロール用基板回路図
23ptn.jpg

(24)UART・エンコーダー・フルキー用基板 および22,23,24基板間接続図
大越電機工業製作所 CRTディスプレーUART・エンコーダー・フルキー用基板回路図
connect.jpg
keyptn.jpg

これが変な並びのキーボード(当時書いた配置図)。
うーん(笑)。
基板だけ買ってよく動いたものである。
確かパターン修正しないと動かなかった記憶もあるし。。。

2013年9月23日

ジャパマハイツ 1979頃

ナック マイ・シャローナ 1979で少し述べたYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家。平屋だがアメリカサイズ?で、玄関を入った広いLDKを中心に周りに8~10畳くらいの部屋が3つくらいあったと思う。冬は寒くLDKには煙突付きの大型石油ストーブ(ポット式)が置いてあった。上記のジャパマハイツのページでは”夏暑く”とあるが、夏は湿度が低く快適だったと記憶している。

福生駅を降りると駅前には送迎用の米軍基地ナンバーのクルマがとまっていたりした。

 ジャパマハイツには独特の雰囲気があり、住民同士の何かユルーイ連帯感みたいなものがあった。当時目新しい黄色いデリカが運搬車だったが、近所のジャパマハイツ内に全く同じ車がいてたまにすれ違うとお互い手を振ったりしていた。そっちの家には飼い犬がいて、こちらが前を通るとご主人のお帰りかと勘違いし通りに出てくるのだった(笑)。
 
まぁ良い話ばかりでもなく土地の権利関係がゴチャゴチャだとかで境界線でもめたり、自分の土地だと私道に杭を打ってクルマが通れなくなったりした、なんていう話があった。あと都市伝説めいた話だが、ある時空き地に家の建築が始まったが途中で中止され材木の山だけが残った。そのうち材木がちょっと減り、またしばらくするとちょっと減り、いつの間にか全部無くなってきれいになってしまったとか(笑)。
 
さて、Yさんのハウスの隣は大瀧詠一さんの小スタジオ兼趣味用?のハウスだった。これは偶然ではなくYさんは大瀧さんの古い知り合いだったから。覗かせていただいたことがあるが、ひと部屋はレコード棚にターンテーブルと小さなミキサー、テープレコーダー、スタンドマイクの置いてあるDJ用で確か当時そこでラジオ番組を制作なさっていたと思う。この画像かもしれない。
あとなぜか別の部屋には分解されかけのハモンドオルガンがあり、ズラリ並んだトーンホイールを見て「ほほぅー」と感心した覚えがある。ご本人も数回お見かけしたと思う。
2012年11月24日
2014年1月追記
2013年末に大瀧さんが亡くなられたとの新聞記事を読み、たいへん驚きました。
福生の仙人としていつまでも活躍されるであろうと思いこんでおりましたが。。。合掌。

[adsense]

ナック マイ・シャローナ 1979

The Beeで半年くらい全く無休で働いた後、知り合いを引っ張り込んでThe Beeから抜け出しつつあったころ、私はYさんの会社でレーザーディスプレイ機材の製作の手伝いを始めた。

会社と言ってもYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家だった。ハウスは今でも住み続けられているようだ。
そこで4,5人のスタッフの一人として働いていたのだが、何しろ自宅から遠く通えない距離だったので私ともう一人は空いているベッドルームを使って泊りこんでいた。月曜に行って金曜に帰ってくるみたいな感じだったと思う。食事はYさんとYさんの家族といっしょで半ば住み込みか。
機材をクルマに載せ中央高速を走って都内まで仕事に行く時、カーラジオはいつもFENだった。今では信じられない話だが当時ラジオで洋楽が聞きたければFENだった。そしてその頃いつも流れていたのがナックマイ・シャローナ。当時の思い出と強烈に結びついている。すでに亡くなられたメンバーもいるんですね。。。
なんと歌のモデルとなったシャローナさん本人がちゃっかり自分のウェブサイトでも流している。
ある日The Beeでのイベントの仕事が日曜の明け方近くに終わり、ドロドロに疲れてクルマで帰る途中夜も明け、朝6時ころ男3人ファミレスで朝食となった。入って席に着くと満面の笑みをたたえた店長らしき男性がメニューを持ってきて一言「これからおでかけですかぁー?」。確かに日曜だし、釣りに出かける3人組にでも見えたんだろうけど。。。コントのようにコケル3人だった(笑)。

2011年4月13日

The BeeにYMOがやって来た 1979

1979/6/18(正確な日付は今回検索して知ったのだが(笑))The BeeでYMOのライブが行われた。
この日も私はレーザーのオペレーションをしていて、ライブ中ステージ背後のスクリーンにリサージュ図形を出したりしていた。リハーサルはしたのだろうか、したような気はする。
このライブの画像や動画が残っているならぜひ見たいものだが、個人で持てる小型ビデオデッキ一体型カメラなんて無い時代だから残っていてフィルム画像だろうか。
私はキーボードが橋本一子さんだったと思っていたがこちらのページによればその時のキーボードは矢野顕子さん。

この後またYMOと仕事で関わることになるとはまだ知る由もなかった。

2011年1月23日