1980 続 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

ずいぶん時間が経ってしまったが前回のブログに追加。

 
電球数分のリレーを駆動したことは前回書いたが、当時でももっとスマートな方法はあったと思う。
しかし電飾装置がこのコンサート専用で仕込み日まで存在しないため、電飾屋さんとリレーの仕様さえ決めておけば駆動系を製作できるし単純な方法のほうがリスクも少なく、何より責任分担が明確にできる(リレーの駆動まではこちらの責任、その先は電飾屋さんの責任)ためリレーを並べることになった。
 
仕込み日、早速電飾装置とPC側とを接続して点灯チェックしたがリレーが動かない。
確認したところ駆動回路中の抵抗値を私が間違えていた。他のスタッフにアキバまで走ってもらいしばし中断(武道館でよかった、近くて)。なかなか点灯しないことにしびれを切らした電飾屋さんに「何待ちですか?!」と険しい顔で問われ、事情を話して平謝り。
 
やがて抵抗が届き、集合抵抗をICソケットに挿していたので交換は素早く出来た。
今度はリレーが威勢良く?ジャッジャッと動いて無事点灯。ステージ裏でオペレーションしていては見られないので交代してもらいステージ正面で確認したが、その時次々繰り出される電飾パターンを観てポカンとしていた電飾屋さんの顔を覚えている(笑)。点灯したことで険悪なムードも消え、その後電飾屋さんには大変協力していただけた。
 
電飾が白熱電球であることがよく分かるシーンがある。Citizens of Scienceのバーグラフ風パターンで上の方が暗いことに気付かれると思うが、これは点灯時間が短すぎて100%光っていないためである。
また赤い電球も仕込まれていてRydeenなどで点滅しており、Mapsで全点灯している。が、実は回路数を減らすため赤はズルしていて、全点灯の1回路と確か10~20個程度の散らばった個々の赤の回路しかなく全ての電球を個々にON/OFFすることは出来なかった。なので赤の点灯しているシーンを全部よーく観ると、個々に点灯している赤の位置は決まっていることが分かる(かもしれない)。
 
この翌年、私はLMD-649の製作でまたYMOに関わらさせていただくことになる。

2012年1月12日

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

カテゴリー:YMO

LMD-649のその後 LMD-649mini・REALBOX 1983

サウンド&レコーディング・マガジン1983年6月号~9月号のMさんのLMD-649mini製作記事連載の内、7月号と9月号が出てきた。これには私は関係せずハード設計・製作は別な方が担当されている。

ユニバーサル基板での製作記事もあるが専用プリント基板も買うことができ、秋葉原で扱っている店から全パーツを入手しパーツキットとして組み立てることもできたようだ。
ここに載っているのも読者のどなたかが製作されたものと思われる。
 
A/D,D/Aは8ビット直線、入力ローパスフィルターは省略されている。
再生アドレス指定はできないが、その代わりKEY IN レベル(KEY IN 信号に対する録音再生スタートのトリガーレベル)を可変させることである程度調整できるようになっている。
KEY IN WIDTH(KEY IN 信号から次のKEY IN 信号までの不感帯の長さ)により、連続するKEY IN 信号に対して数拍おきに再生させることも可能。また再生ピッチを変えることが出来る。
 
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9月号では再生専用機REALBOXが紹介されている。この製作記事は10月号に続いていたようだ。
 
A/D、D/Aのビット数をまとめると以下のようになる。
 
LMD-649       : 12bit直線
LMD-649mini : 8bit直線
REALBOX     : 8bit直線
LINDA           : 8bit折れ線
 
1/11追記
サウンド&レコーディング・マガジンのバックナンバー目次一覧で確認したところ、REALBOXの連載は1984年2月号まで続いていた。

2012年1月10日

LMD-649のその後 LINDAシステム 1984

「LMD-649の製作 1981」の最後にふれたが、Mさんがファンハウスに移られたあと製作されたのがLINDAシステムである。私はソフトウェアの作成でお手伝いすることになった。

どうしてLINDAという名前だったのかシステム構成がどうなっていたのか忘れていたのだが、雑誌記事が出てきた。サウンド&レコーディング・マガジン1984年8月号である。
LINDA1small.jpg
LINDA2small.jpg


LINN DRUMをプレーヤーとして使用するのでLINDAだったのだ。
PC-9801からROMエミュレーターを介してリンドラムのROMコネクタに接続し、リンドラムから見るとROMだが実態はPC-9801で録音・加工・編集出来るRAMとなっている。
PC-9801側のA/D,D/Aは8ビット折れ線。リンドラムも8ビット折れ線だったのだろうか?
調べてみると初期型LM-1は8ビット、後期型LM-2が12ビットとなっていて、この雑誌画像はLM-2のように見える。とすると4ビットシフトして上位8ビットのみ使用していたのかもしれない。
ソフトウェアはPC-9801MS-DOS上のTurboPascalで開発したと思う。
エディタ環境がかなりカスタマイズでき使いやすかった。この後PC-9801のCRTのキャラクターを小さくして文字数、行数を増やすソフトウェアが出たのだが、簡単にカスタマイズ可能だった。
今回雑誌を発掘していたらボーランドから送られてきたTurboPascal V2.0発売のチラシとメールが出てきた。価格は$49.95となっており当時非常に安価だったことを思い出した。
borlandmailsmall.JPG
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2012年1月10日

1981 YMOウィンターライブの映画撮影

1981年、ウィンターライブで使用される映画の撮影が行われた。

ライブの開幕時にステージ前に吊るされた紗幕に上映され、確か扉が開いてカメラが進んでいくとYMOメンバーが演奏を始める内容で、紗幕が開くと後ろに本物のメンバーが実際に演奏しているという演出だったと思う。ライブの最後もこの逆で終わったような記憶もあるがどうだったかな?
前年の武道館コンサートを担当した照明屋さんが引き続きライブを担当することになり、見学に連れていってもらった。東京近郊の撮影所だった。
スタジオと言っても中は土間で冬も近づき寒く、暖房は一斗缶を切って加工したストーブ?に木炭が入っているもの(このページの「ガンガン」ですね)だけ。その管理をしているらしい初老の男性に置き位置を聞かれ戸惑った記憶がある。
上を見上げると天井からワイア、というよりは縄で吊られた畳1,2枚位のサイズの木組みの板(このページの「二重」)が不規則な位置にいくつかぶら下がっている。
そんな意外な周辺の状況ばかり印象に残っていて、肝心の撮影がどうだったか覚えていない(笑)。

連れていってもらった照明屋さんがスタジオの外を歩いていたら、関係者に間違えられたか向こうから来たちょんまげ姿の男性に挨拶されてびっくりしたと話していた。
メンバーも「撮影スタジオ」という言葉と現場のギャップに驚いたという話を聞いたことがある。

2011年12月26日

高層階にやって来たセミ

私が住んでいるのはマンションの10数階だが、夏の終わり頃ベランダにセミが落ちていることがある。

おととしなどは4,5匹ひっくり返っていた。
今年も1匹ひっくり返っていたが昨日、元気なセミに遭遇した。
自室に入るとPCの辺りからジーという音がする。ファンでもいかれたかなと思って耳を近づけてみるとどうやら窓の外から聞こえている。
もしやセミか?と思い当たりベランダに出てみるとアブラゼミ(鳴き声で調べた)が壁にとまって鳴いていた。
semi1109.jpg
この画像を撮影したあと、音声付きの動画を撮ろうと思い別のカメラを手に再び近づくとセミは急に飛び立ち、空に向かって飛んで行って見えなくなってしまった。
以前も高層階に住んでいたが、そこにセミが来ることはなかった。周囲の環境も影響しているのだろうが、セミにはこの建物が大きな木に見えるのだろうか?
しかしセミの生態というのも不思議である。アブラゼミは6年間地中で過ごしたあと、地上に出て来て1ヵ月くらい鳴いて交尾して死んでしまう。
人間に例えるなら、
歌手を目指すも全く鳴かず飛ばずだった男性が68才の春にいきなり大ブレーク、シングル100万枚のヒットを飛ばして年末の紅白に出場。翌年には40才年下の女性と結婚、父親となるも70才でコンサート中急死。みたいな感じ?
ちょっぴり羨ましいかもしれない(笑)。

2011年9月 9日

NIBL BASIC ROMを買ったのは東急ハンズだった! 1978

1月の「初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978」で以下のように書いた。

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このあと、SC/MP-IIを使いROMで売られていたNIBL BASICを買って回路を組み、シリアルポートに自作のキャラクタディスプレーターミナル(トラ技の後ろのページに載ってた自作用基板+ジャンクの電卓キーをばらして組んだキーボード+ビデオ出力)を接続してビデオモニタに40*25キャラクター表示させてBASICをプログラムできるようにした。
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このターミナルの写真が出てきた。 以下画像クリックで拡大。

自作CRTターミナル

うしてわざわざ電卓キーなんかばらしてキーボードを作るのか今考えれば不思議だが、当時、コンピューター用キーボード(PCはまだ存在しない)は高価だったしPS2コネクタみたいな統一規格もなかったからである。
それによく見るとこのキーボード、並びがすごく変である。アルファベットは問題ないが、カナがキーボード最上段左からアイウエオカキクケ..と並んでいて、じゃ2段目もそうやって続いているのかというとバラバラだ。
電卓キーに合わせて自分でも少し入れ替えたかもしれないけど、このターミナル基板はキーボードマトリクスでキーを読み込んでいたはずだから、このターミナル基板の設計がそうなっていたのだろう。
いずれにせよNIBL BASICではカナは使えなかったので問題なかったのだが(笑)。
さてそのNIBL BASIC ROMを買った時の領収書が出てきた。
NIBL BASIC ROM 東急ハンズ領収書な、なんと東急ハンズで買っていた。
1978年11月26日。
てっきりアキバのロビン電子とかで買ったものとばかり思っていた。
なんでまたハンズで買ったのだろう。
すっかり忘れているが無理やりこじつけてみると。。。
考えてみれば当時個人が買えるような価格のパソコンというものは存在せず、アマチュアが買えるのはCPUメーカーの出していた自社CPUチップの売り込み用評価用キット類(あるいは自作)しかなかった時代。
まぁ、いうなればアマチュアにとってはDIYホビーだったわけで、となれば東急ハンズにマイコンコーナーがあっても不思議ではなかったかな?と。
いまなら大人の科学マガジンといったところか。
しかしTinyBASIC入りのROMが1個¥24,000、よく買ったなぁ(笑)。

2011年8月18日

石丸電気の領収書 1982

その昔、TVで石丸電気サトームセンオノデンのCM盛んなりし頃の話。

秋葉原で家電製品を買っていたのは石丸電気が多かった。
買い物をするとマニュアルや保証書をファイルしておくクリアファイルをもらえた。
石丸電気 電化ファイル オーディオファイル
今でも5冊とってある。
毎回もらえたわけでもなくどういうタイミングでもらえたのか忘れたが、今ではちょっと考えられないサービスである。
この頃石丸で買い物をすると、販売員が5,6枚綴りの複写式の伝票に手書きで色々書き込み処理していた。
その伝票をコンピューターに入力していたようで、後で修理サービスに持っていくとガラステーブルの下に置かれたIBM製のCRTターミナル(グリーンモニタの付いたPCではない端末)で検索できたように記憶している。
石丸電気の領収書 表
石丸電気の領収書 裏

POS端末
やバーコードの無い時代だったんですね。
ところでこの頃、新宿のラオックスで買い物をした時の忘れられない光景がある。
商品を持って会計に行くと、伝票と支払った現金を筒にいれエアーシューターで送り出すのである!
会計にはレジスターがない。
しばらくすると「シュポッ」と筒が戻ってきて、中からオツリと領収書を取り出して渡してくれた。
つまりその店の現金処理を全て1箇所に集中させて処理し、効率化しようということだったと思われる。しかし考えてみるとその会計処理をするフロアは機械的で、全く人間味の無い職場だったに違いない。
お客の顔は全く見えず各階からのエアーシューターが並んでいて、前触れも無くそこに「シュポッ」と届く筒を開けて処理して送り返す作業の連続なのだから。。。
今考えればまるで「未来世紀ブラジル」の世界じゃないかと思ったらすでにこんな書き込みも。

2011年8月 3日

チューリヒ(チューリッヒ)オペラハウス 2 2004

イベントでスタッフに配られたネックストラップ。金と赤の組み合わせでなかなかゴージャス。
FIFAロゴ入りのサッカーボールマスコットも付いている。コレクターに売れないかな?(笑)
クリックで拡大。
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イベントの翌日、チューリヒ空港からフランクフルト経由で帰って来た。
チューリヒ空港で飛行機までバス移動の途中、隣にアルマーニのマークの入ったスーツカバーを3つ4つ持っている男性がいる。珍しいなと思ったら、前日のマエストロ氏だった。移動も大変です。
チューリヒは路面電車と、坂が多いためかトロリーバスが走っている。路面電車に乗ってみたが、料金箱も改札も一切なく切符の購入(乗り場で買う)は乗客の自主性にまかされている。色々な料金徴収のコストを考えると合理的な選択なのだろう。
購入した切符と路面電車・トロリーバス。路面電車の画像では手前に路面電車の架線とトロリーバスの架線の交差部分が写っている。昔は東京でも都電とトロリーバスが交差していたことを思い出す。
チューリッヒ 路面電車 切符
チューリッヒ路面電車 2004
チューリッヒ トロリーバス 2004

おまけ。チューリヒでこんなクルマ(自転車)を見つけた。当時少し話題になっていたような気もするが、電動アシスト付きあるいはバッテリー走行も可能な3輪車だったと思う。側面からの画像にペダルが見えている。
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2011年6月20日

チューリヒ(チューリッヒ)オペラハウス 1 2004

2004年、新たに開発したLED大型スクリーンシステムをドイツの会社に納入した。

そのシステムがFIFAのイベントでデビューすることになり、機材の最終調整(バージョンアップ)とサポートのため現地に出張することとなった。
ドイツ・ラシュタットに数日間滞在して機材を調整した後、スイス・チューリヒにクルマで向かった。
チューリヒ湖と泊ったホテル付近の街並み。クリックで拡大。
チューリッヒ 2004 1
チューリッヒ 2004 2

イベント会場はチューリヒオペラハウス、イベントはFIFA CENTENNIAL WORLD PLAYER GALA 2004。その年の最優秀サッカー選手を表彰する式典である。
裏手からみたオペラハウスとイベントの仕込み風景、劇場内の装飾。中央にはお約束?の巨大なシャンデリア。
チューリッヒ オペラハウス 2004 1
チューリッヒ オペラハウス 2004 2
チューリッヒ オペラハウス 2004 3
チューリッヒ オペラハウス 2004 4
チューリッヒ オペラハウス 天井 1
チューリッヒ オペラハウス シャンデリア
チューリッヒ オペラハウス 天井 2

チューリッヒ オペラハウス LEDスクリーン 1チューリッヒ オペラハウス LEDスクリーン 2


このイベントの司会者はベッケンバウアー、ゲストにはベッカム夫妻も招かれていた。オーケストラと(多分高名な)オペラ歌手が男女3名くらいずつ出演し、オペラの名曲とサッカー映像が流れるという面白い組み合わせだった。印象的だったのはある女性歌手が舞台袖で選手登場を観て「キャー、ロナウジーニョよ!(ハートマーク)」みたいなリアクションをしていたこと(笑)。オペラ歌っててもサッカーファンで不思議じゃないと納得。
舞台風景。
チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 1

チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 2


舞台に吊るされていた飾りは翌朝撤収中。チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 撤去中

2011年6月20日

アスキーネットの会員カード 1986頃

アスキーネットの会員カードが出てきた。

バーコードも磁気ストライプもなしのプラスチックカード。
裏面にコマンドの簡易マニュアル(忘備録?)が載っている。当時のパソコン通信はDOSベースだから、コマンドを打ち込まないと何も始まらなかった。クリックで拡大。
アスキーネットの会員カード 表
アスキーネットの会員カード 裏

2011年6月18日