プラザ勝どきは解体を免れたが 2026

プラザ勝どきの建て替え計画が変更されリノベーションということになった。

乾汽船 2026年4月~2029年3月 中期経営計画 ~明日も元気~ 内の「3つのセグメント ③不動産事業」の資料を見るをクリックでプレゼン資料が表示される。

個人的にはリノベーションによってプラザ勝どき屋上の奇妙な三日月オブジェが無くなってくれたら良いと思う。がしかし、上記の~明日も元気~内でプラザ勝どきを突然「PK」リノベーション後を「PK2」と称するのを見るに、その思いとは逆に三日月オブジェのセンスが建物全体に広がって奇妙な加飾で覆われてしまわないか心配である。

勝鬨橋の思い出

◎勝鬨橋開閉部分の歩道は木の板張りだった

勝鬨橋の最初の思い出は小学生時代に父親と一緒に晴海の東京国際見本市会場での東京モーターショーを観に行った帰り、晴海から歩いてきて勝鬨橋を渡った橋のたもとにあった水上バス乗り場(現在の東京湾ボートシーバスガイド乗船場あたり)から船に乗り浅草まで帰った時のことである。おそらく1966か67年、勝鬨橋が開閉し都電が通っていた頃。よく覚えているのは開閉部分の歩道がおそらく軽量化のためか木の板張りだったことだ。もちろん充分な強度であったろうが木の節穴から水面が見えて怖かった。

◎早朝のコミケ参加者

次は1987年末にプラザ勝どきに引っ越してから、晴海でコミックマーケット(コミケ)が開催される日の早朝、銀座方面から勝鬨橋を歩いてくる多くの参加者がいたことだ。

◎帰って行く花火の台船

同じくプラザ勝どき時代、隅田川花火大会第二会場すぐ近くのマンションリポ駒形(現存せず)に親戚が住んでいて毎年屋上(このブログのナショナルの看板の立っている場所)から花火を観ていた(風向きによっては花火の燃えかすが降ってくるような近さ)。花火大会は土曜日の夜行われ、翌日曜日花火打ち上げの台船がタグボートに引かれて勝鬨橋をくぐり東京湾方面へ向かうのを橋の上から何回か見かけたことがある。

ちなみに晴海の東京モーターショーは何回か行っていてよく覚えているのは見本市会場南館の前の池で水陸両用車アンフィカーのデモ走行(航行?)を行っていたことと、スズキジムニーが登場したとき屋外に鉄骨で急登坂路の周回コースを作りデモ走行を行っていたことだ。

プラザ勝どき周辺の空中写真 1992

「ピア晴海の空中写真 1992」に載せた1992年10月10日に撮影された国土地理院CKT921-C10-37の中に「勝どき・月島の思い出 1990」で書いた勝どき1丁目も写っていた。以下に角度は異なるがGoogleマップの勝どき1丁目の画像と並べてみる。

1992年10月にはすでにイヌイビル・カチドキが建っている。また中央区立月島第二小学校の建物もプラザ勝どきパンフレットの1986年頃の航空写真と異なり建て替わっていることが分かる。小学校Webページによれば1990年に建て替わったようだ。古い小学校は晴海通り側の校舎の窓が騒音対策のためか全てガラスブロックで塞がれていたのが印象的だった。これも国土地理院のサイトではより高解像度の写真が見られ飲み屋街や銭湯の建物もよりはっきり分かる。

この銭湯についてブログ「昭和回顧録 建築編」内の月島浴場/勝どき1丁目に詳しく書かれていた。なんと昭和2年に東京市によって建てられたモダン建築の公衆浴場で確かに高解像度版の空中写真で見ると瓦屋根ではない四角い建物であるのが分かる。このブログには他にも勝どき・月島の懐かしい建物が多く載っている。こちらの中央区観光協会特派員ブログ内のかつて銭湯があった場所 その3には銭湯入口の写真が載っている。

ピア晴海の空中写真 1992

国土地理院の空中写真がブログなどで使用可能と知り、晴海埠頭の写真を探したところ1992年10月10日に撮影されたCKT921-C10-37の中にピア晴海が写っていた。以下に「ピア晴海 1991」で載せた現在のGoogleマップと、空中写真から大体同じ範囲を切り取った画像(画像ソフトで拡大、文字を追加)を並べるので比較してみてほしい。

UR晴海4丁目市街地住宅(1969年築UR団地)とソフトタウン晴海(1983年築マンション)が残り、同じ場所であることを示している。見やすいように写真の向きを変え拡大したのが以下の画像。

埠頭に船も泊まっている。廃線跡も当時の記憶よりかなり多く残っていた。国土地理院のサイトではより高解像度の写真も見られるがダウンロード・画面コピー禁止なので興味のある方はそちらをご覧いただきたい。その写真だとピア晴海屋外テーブル席の様子や廃線の線路がはっきり分かる。

勝どき・月島の思い出 1990

ピア晴海 1991を書きながらプラザ勝どきに住んでいた1990年頃の周辺の様子を少しずつ思い出した。まず日常の食品などはどこで買っていたのか?プラザ勝どきパンフレット内の「LIFE INFORMATION」には今時住居紹介には欠かせないコンビニ・スーパーの記述がない。

実際すぐ近くにはコンビニもスーパーも無かった。黎明橋のたもとにあった黎明スカイレジテルの2Fに「O&O」という「まいばすけっと」位の小さなスーパーがありそこは確か夜10~11時くらいまで営業していて遅くに帰ってきたときなどよく利用していた。大きなスーパーと言えば今も営業している清澄通り月島の「フジマート」だけ。西仲通りに小さなスーパーがあったような気もするがよく覚えていない。あとは西仲通りの個人商店となる。

プラザ勝どきパンフレット内の航空写真と、同じ構図で見たGoogle3Dマップを以下に比較してみる。

プラザ勝どき航空写真
1986年頃のプラザ勝どき周辺

こちらが現在のプラザ勝どき周辺3Dマップのリンク。上手く埋め込めなかったので比較しづらいが上の航空写真をクリックすると別タブで開くので見比べてほしい。隅田川の手前勝どき地区はほとんど跡形も無く変わってしまっている。ぱっと見勝どきで残っているのは以下の円で囲ったプラザ勝どき、中央区医師会館マンションだけ。

晴海通りからプラザ勝どきを見てすぐ右手、晴海通りから道路一本裏手に左右に木造の店が建ち並ぶ路地の飲み屋街があった。客用の共同トイレが路地に面してあったのを覚えている。この飲み屋街は検索しても見つからなかったが晴海通りの向かいにあった数軒の店のとても懐かしい写真(2007年)を掲載しているサイト「昭和レトロ放浪記」があった。昭和レトロ放浪記の写真にある「東京エースレーン」看板「にこみ 千福」はよく覚えている。「にこみ 千福」は勝どきサンスクエアB1Fに移り営業中

また「佃島・月島百景」[動画]勝どきに四階建ての都営住宅ができた頃内に1989年に晴海通りと清洲通りの交差点から都営アパートを撮った写真があり背後にプラザ勝どき、都営アパート群と銭湯、道路沿いの商店が写っている。銭湯があったのか!すっかり忘れている。

こう見てくるとプラザ勝どきの入居パンフレットのイメージにはなかなか無理があったことが分かる。モデルの背景は勝鬨橋と築地であり勝どき側ではなく、イメージ画像も銀座の和光。航空写真を載せたのは築地や銀座が近いアピールだったと思うが、清澄通りまで画角に入っていたのは良心的だったかもしれない。

ピア晴海 1991

1991年8月中央区晴海にシーフードレストラン「ピア晴海」がオープンした。

このブログの「晴海運河(晴海埠頭)の北側にあったのは…?」に当時のイラストマップがあり、以下のgoogleマップの晴海臨海公園水辺のテラスからザ・パークハウス晴海タワーズ クロノレジデンス建物にかかる位の敷地にあった。

当時勝どきのプラザ勝どきに住んでいたので近く、週末はたまに食事に行っていた。店内にはジャズが流れ食事は和洋中幅広くどれもおいしく自分たちの食事の締めはパエリアが多かった。電子端末で注文を取りに来るアルバイトのせいだったか分からないが、残念なことに注文が通っていなかった事が数回あった。この店の目玉は生け簀にいる(はさみをゴムバンドで閉じられた)ロブスター。総じて食事の注文まではファミレス並だったが料理はシェフがちゃんと調理している印象だった。

店内には貸し切りの部屋もあり結婚式の2次会を見たことがある。店の横に魚介類を直送してきたらしい九州からの大型トラックが駐まっていたりした。当時晴海埠頭には大型船が入港でき海外の海軍が表敬訪問することもあり、いつぞやは確かフランスのミサイル巡洋艦の四角いミサイルランチャーを見ながら食事するというシュールな経験をしたことがある。ホテル浦島の裏からピア晴海に向かう途中にはまだ部分的に貨物の引き込み線が残り、手前にあった小ぶりなHARUMIドーム21ではプロレスイベントなどをやっていた。またピア晴海から見えるニッスイの大型倉庫の壁面には大きなロブスターのイラストが描かれていた。ちなみにピア晴海グッズのロブスターぬいぐるみ(全長35cm)は今でも元気にしている(笑)。

上記の海外海軍の表敬訪問でいえば、停泊中の外出許可をもらったであろう制服姿(水兵姿)の若い乗組員のグループと晴海通りを走る都バスに乗り合わせたことがある。

LMD-649の製作 残った謎 1981

LMD-649の製作 2で、使用したラッピング基板がエブレンE-PAXⅡ MODEL420/HC28Eと推測したが基板サイズは125×220mm、ところがメモリボードの基板サイズは115×215mmで幅が10mm違い同じカードケージに普通には入らない。E-PAXⅡに幅115mmの基板があったのか?(10mm違いで販売する?) あるいは125mm幅のカードケージに何か工夫して115mm幅のメモリボードを入れたのか?(画像では普通にスロットに入っているようだが?) またメモリボードのコネクタは44pin(片面22pinずつ)でE-PAXⅡのコネクタが何pinだったのか分からない。コネクタバスは基板では無く手配線だったのでピン数が違っても問題は無かったが、カードケージへのコネクタ取付が問題となるだろう。

またカードケージの中間になにか仕切り?の様な物が見えるがこれが何だったのかも分からない。謎が残る。

LMD-649の製作 2 1981

「LMD-649の製作」を載せてから15年も経過してしまったが制御の中心であるコントロールユニット(ロジック)について少し詳しく書いておこうと思う。雑誌「ロッキンf」 1982年3月号の記事中この図のオレンジ色の部分であり、

LMD-649 BLOCK DIAGRAM

記事中の以下の画像でカードスロットから抜かれて本体ケースの上に置かれたボード(オレンジ色)がそれである。

LMD-649 本体内部

ボードは2枚重ねで固定されており、おそらく1枚では回路が入りきらず44ピンのバスに含まれない接続が必要でこの形になったのだろう。ボードに接続されているフラットケーブルは操作パネルのスイッチ類と7セグLEDに繋がっている。

ボードはエブレン製のラッピング用ユニバーサルボードである。当時自作ボードはラッピング配線をしていた。ラッピング配線をする場合、IC取付側表面にあらかじめラッピングピンが立っているエブレン製ボードを使うか、通常のユニバーサルボードにラッピング用ICソケットを取り付けボード裏面でラッピング配線をするかのどちらかだった。表面で配線すればピン番号が分かりやすく、裏面で配線すればICをよけることなく直線最短距離で配線できた。

このボードの資料がないか「◎マイコンピューターをつくろう SC/MPによるマイコン入門」が載っている1978年1月号のトランジスタ技術を探したら広告が載っていた。LMD-649に使用していたのはこのE-PACSⅡである。ボードサイズから推測するとMODEL420/HC28Eで当時¥4,000!仕事だから使えたがアマチュアが趣味で使える値段ではなかったようだ。

このころはAC電源のトルクのあるラッピングツールを使っていたが、ラッピング用ビットは確か3段階にわたって進化したと記憶している。1.最初は線材のラッピングに必要な長さ分の被覆をストリッパーで剥きビットに差し込んでラッピング、2.次にCSMW(Cut&Strip Modified Wire Wrap)用ビットCSMW用線材を使い被覆のままビットに差し込みラッピングすると巻き付く部分だけビットが自動で被覆を剥いてくれる様になり(ジュンフロンETFE電線!思い出した)、3.最後はまた線材の被覆が変わり被覆のまま巻き付けるとラッピングピンの角の部分だけ被覆が裂けて導通する、だと思っていたのだが・・・3が検索で出なかったので同じく上記のトラ技を探したらこんな広告があった。

ポストに線材を巻き付けるときにポスト面内側の被覆を裂きながら巻き付けるアイデア。まず手巻きはしなかったのとこれ専用の電動工具や線材を使った記憶が無いので、自分では使っていなかったようだ。このSLIT WRAPが自分が記憶していたつもりの3に該当するかは分からない。

「ロッキンf」 1982年3月号の別なページの以下の画像だとボードは8枚挿さっており、フラットケーブルコネクタのあるコントロールユニット以外にも右から3枚目と左から2枚目がラッピング基板のようだが何だったか忘れている。確かなのは右端のカード抜き取りレバーの付いている基板2枚はメモリボード、1枚飛んでフラットケーブルコネクタのある基板2枚がコントロールユニット、その左の四角いパーツが載っている基板がA/D,D/A基板なことだ。

LMD-649 カラー画像

上記のトラ技にこんな広告もあった。LMD-649に使用したデジタルスイッチである。1桁単位で必要な桁数分スイッチ同士をパチンパチンとはめ込んでいき、仕上げに左右のエプロン部分を取り付けて完成。

次にコントロールユニットの実際の回路構成や信号のタイミングについて述べたい。コントロールユニットは74LSTTLで組まれており基本は以下の図のプリセットカウンタ(加算器)とコンパレーター(比較器)である。図は簡素化されており実際は複数のロジックICが必要となる。

LMD-649 基本回路図

まず音をサンプリング(録音)する時はカウンタクリアでアドレスを0にし次にカウンタクロックでアドレスを1つずつ増やしながら入力されたA/Dからのデータをメモリに書き込み、コンパレーターは無視しカウンタのキャリーアウト(アドレスがFFFFHすなわち最終アドレス)でカウンタとメモリ書き込みを止める。

音源を再生するときはカウンタセットでスタートアドレスを16進デジタルスイッチから読み込みセットしそのアドレスからカウンタクロックでアドレスを1つずつ増やしながらメモリ上のデータをD/Aに渡して音を出力し、16進デジタルスイッチのエンドアドレスとコンパレーターで比較しつつ一致出力が出たらカウンタとD/A出力を止める。

以上の動作をロジックのタイミングで見たのが以下の図である。

LMD-649 ロジックタイミング

LMD-649はこの1台しか製作されず終わったのだが、もし改良するチャンスがあったらどうしていたか? 当時も少し考えたが音源の始点終点の指定が16進デジタルスイッチ、表示が16進7セグLEDというのは原理的過ぎる。そこでスイッチをロータリーエンコーダー(インクリメンタルエンコーダー)にし表示は16進から10進に変換して表示することにして、始点と終点の2つの円形ダイヤルをグルグル回すことで前後させればより使いやすくはなったろう。以下のようなイメージだ。

それと「逆転再生」スイッチの追加。これはカウンタ周りの回路変更が必要となる。プリセット可能なアップダウンカウンタを使用しかつスタート/エンドアドレスを逆にセットしなければならない。

また全くの他力本願だがメモリは16ビット分積んでいたので、もし14ビットや16ビットのA/D,D/A入出力基板が出来ればすぐに挿し代えて使えただろう。

とはいえ改良となれば当然音源・始終点のセーブ、ロードは必須となったであろうし音源の波形も見てみたい。それだったらこの後製作することになるLINDAシステムのようにPCに繋げるか、いっそPC-9801に挿すボードにしてしまう(オレンジがそうなったように)という方向だっただろうか。いずれにせよサンプラー製品(サンプリングキーボード)がどんどん出てきてしまうのだからわずかな期間しか優位に立てなかったろう。

LMD-649は歴史に埋もれて忘れ去られていても不思議でなく、偶然のタイミングでYMOのアルバムに使用されその経緯と音が残ったのは幸運だったとしか言いようがない。

浅草松屋 クルクルロケット2 1952

以前、浅草松屋屋上にあったクルクルロケットについて載せた。その投稿の5年後2021年浅草松屋は開店90年を迎え、松屋浅草公式Facebookが昔懐かしい写真を多く載せていてその中にクルクルロケットの写真があった。

DAHON Deftar フェイスカット作業にペダル・チェーン・スプロケット交換 2025

購入から走行距離が3000kmに近づきつつある12月にペダルを踏み込むとカチカチ音と軽いショックを感じるようになった。オリジナルのMKS ( 三ヶ島製作所 )脱着式ペダルにガタが来たのかと思いアマゾンでMKSのプロムナード イージー [PROMENADE Ezy] を買ったらオリジナルのペダルと全く同じ物。自分で付け替えてみたがカチカチ音は消えず。

ショップで診てもらったところボトムブラケット周辺の問題がありフェイスカット作業で解決したとのこと。確かにカチカチ音は消えペダルの踏み込みも軽くなったように感じる。

今回チェーン交換をした方が良いかと思っていたらリアスプロケットも摩耗していて両方を交換してもらった。またリアディレーラーに当たった痕があり保護するためのプロテクターを勧められ取り付けてみた。元はリアディレーラー側にクイックレバーが付いていたが折りたたむ内側にクイックレバーを付け替えても大丈夫だったので問題なし。

とここまでやって、全て解決かと思っていたら今でもごくたまにペダルを踏み込むとカチンと鳴ることがありこれはどうやら新しいペダルからのようだ。グリス塗布とかで収まるだろうか?