ジャパマハイツ 1979頃

ナック マイ・シャローナ 1979で少し述べたYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家。平屋だがアメリカサイズ?で、玄関を入った広いLDKを中心に周りに8~10畳くらいの部屋が3つくらいあったと思う。冬は寒くLDKには煙突付きの大型石油ストーブ(ポット式)が置いてあった。上記のジャパマハイツのページでは”夏暑く”とあるが、夏は湿度が低く快適だったと記憶している。

福生駅を降りると駅前には送迎用の米軍基地ナンバーのクルマがとまっていたりした。

 ジャパマハイツには独特の雰囲気があり、住民同士の何かユルーイ連帯感みたいなものがあった。当時目新しい黄色いデリカが運搬車だったが、近所のジャパマハイツ内に全く同じ車がいてたまにすれ違うとお互い手を振ったりしていた。そっちの家には飼い犬がいて、こちらが前を通るとご主人のお帰りかと勘違いし通りに出てくるのだった(笑)。
 
まぁ良い話ばかりでもなく土地の権利関係がゴチャゴチャだとかで境界線でもめたり、自分の土地だと私道に杭を打ってクルマが通れなくなったりした、なんていう話があった。あと都市伝説めいた話だが、ある時空き地に家の建築が始まったが途中で中止され材木の山だけが残った。そのうち材木がちょっと減り、またしばらくするとちょっと減り、いつの間にか全部無くなってきれいになってしまったとか(笑)。
 
さて、Yさんのハウスの隣は大瀧詠一さんの小スタジオ兼趣味用?のハウスだった。これは偶然ではなくYさんは大瀧さんの古い知り合いだったから。覗かせていただいたことがあるが、ひと部屋はレコード棚にターンテーブルと小さなミキサー、テープレコーダー、スタンドマイクの置いてあるDJ用で確か当時そこでラジオ番組を制作なさっていたと思う。この画像かもしれない。
あとなぜか別の部屋には分解されかけのハモンドオルガンがあり、ズラリ並んだトーンホイールを見て「ほほぅー」と感心した覚えがある。ご本人も数回お見かけしたと思う。
2012年11月24日
2014年1月追記
2013年末に大瀧さんが亡くなられたとの新聞記事を読み、たいへん驚きました。
福生の仙人としていつまでも活躍されるであろうと思いこんでおりましたが。。。合掌。

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ナック マイ・シャローナ 1979

The Beeで半年くらい全く無休で働いた後、知り合いを引っ張り込んでThe Beeから抜け出しつつあったころ、私はYさんの会社でレーザーディスプレイ機材の製作の手伝いを始めた。

会社と言ってもYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家だった。ハウスは今でも住み続けられているようだ。
そこで4,5人のスタッフの一人として働いていたのだが、何しろ自宅から遠く通えない距離だったので私ともう一人は空いているベッドルームを使って泊りこんでいた。月曜に行って金曜に帰ってくるみたいな感じだったと思う。食事はYさんとYさんの家族といっしょで半ば住み込みか。
機材をクルマに載せ中央高速を走って都内まで仕事に行く時、カーラジオはいつもFENだった。今では信じられない話だが当時ラジオで洋楽が聞きたければFENだった。そしてその頃いつも流れていたのがナックマイ・シャローナ。当時の思い出と強烈に結びついている。すでに亡くなられたメンバーもいるんですね。。。
なんと歌のモデルとなったシャローナさん本人がちゃっかり自分のウェブサイトでも流している。
ある日The Beeでのイベントの仕事が日曜の明け方近くに終わり、ドロドロに疲れてクルマで帰る途中夜も明け、朝6時ころ男3人ファミレスで朝食となった。入って席に着くと満面の笑みをたたえた店長らしき男性がメニューを持ってきて一言「これからおでかけですかぁー?」。確かに日曜だし、釣りに出かける3人組にでも見えたんだろうけど。。。コントのようにコケル3人だった(笑)。

2011年4月13日