ハウステンボス サウンドギャラクシー 2(音の銀河) 1992

サウンドギャラクシーで使用されたサーチライトはロボサーチで、シャッターによるON/OFF、パン・チルトの位置制御、フィルタースクロールによる色変えなどがDMXでコントロール可能だった。

このサーチライトはハウステンボス内だけでなく、対岸にも確か4台ほど設置されていた。
地図から推測すると西泊ノ鼻だったと思われる。
このコントロールは専用回線とモデムで行われていたと記憶している。やや分かりにくいが前回リンクした画像のサウンドギャラクシー1と2の中央付近にある2つの光源の左側がそれである。ショーの行われる日は(つまりほとんど毎日だが)スタッフが行き防雨カバーの付け外しやメンテナンスを行っていたはずだ。
私が持っていたサウンドギャラクシーの画像が出てきた。リハーサル時のものだとおもわれる。
画像クリックで拡大。
ハウステンボス サウンドギャラクシー 1 
ハウステンボス サウンドギャラクシー 2 
ハウステンボス サウンドギャラクシー 3

2011年2月 7日

ハウステンボス サウンドギャラクシー 1(音の銀河) 1992

1992年3月にオープンするハウステンボス夜のライトショー「サウンドギャラクシー」のレーザーを勤務先が担当することになり、私は制御系のハードとソフトを製作することになった。

PC-9801を4台使い、1台をマスターコントローラーとしてコントロールルームに、残り3台をスレーブコントローラーとして3か所のレーザー光学台に配置した。各コントローラー間はRS-485ラインと、安全のために独立したレーザー光シャッター用ラインで結んだ。
マスターコントローラーはSMPTEタイムコード信号に同期してタイムライン上の制御データをスレーブコントローラーに送り、スレーブコントローラーはそれに従いXYスキャナーにアナログ図形データを出力した。マスター、スレーブともMS-DOS上のTurbo Pascalでアプリケーションを作成した。CP/M時代にPascalMT+やCP/M版Turbo Pascalを利用していて慣れていたし開発環境が使いやすかったからである。ちなみにPascalMT+はROM,RAM領域を定義できたのでZ80や64180組み込み用にも使えて便利だった。
レーザーはアルゴンレーザーを使用し、複数台の出力を合成することによりセンターは出力20W、左右は出力8Wだったと思う。

コントロールルームはオレンジ広場ビッケンビッケンの2階だった。ハウステンボスのページを見たらビッケンビッケンは健在である(笑)。マルチトラックテープレコーダー2台や音響・照明・レーザー各制御用のラックで室内はぎっしり埋まっていた。今なら当然SSDやSDHCカードなんかに入れたマルチトラック音源を出力させるところだろうが、当時はテープを回していたのだ。

2011年2月 6日

月刊ロッキンf 1982年3月号 LMD-649の記事 1982

月刊ロッキンf 1982年3月号でLMD-649が紹介されている。別冊宝島と一緒に出てきたもの。
これがLMD-649に関して最も詳しく正確に書かれた記事だと思う。サムネイル画像クリックで拡大。

ロッキンf 1982年3月号表紙
ロッキンf 1982年3月号 LMD-649

ロッキンf1982年3月号 LMD-649記事 1
ロッキンf1982年3月号 LMD-649記事 2

この雑誌記事を読み返してみて思い出したことがあった。先日LMD-649についてここに書いた時、A/D,D/Aは東芝研究所製でコントロールロジックボードは私の自作だったことは覚えていたのだが、メモリボードはどうしたのか忘れていた。RAMボードはダイナミックRAMの載った市販のものだったのだ。確かアドテックシステムサイエンス製で、この頃メモリボードのメーカーとして有名だったと思う。

バス規格はどうしていたのだろう。バス配線はバス基板ではなく手配線だったように記憶している。
A/D,D/Aは12bitだからデータバスは最低12bitはあったはず。アドレスバスはメモリ容量64kwordということになるので1024*64-1=65535=FFFFH=16bitとなる。
RAMボードは当時のことを考えると16bit*32k*2枚ではなく8bit*64k*2枚だった可能性が高い。
バスが手配線だからアドレスバスは共通、データバスをボード1と2で下位8bitと上位4bitに分岐させれば解決である。

2011年2月 3日

1980 YMO 武道館コンサート電飾に関する雑誌記事 1982

YMO 武道館コンサート電飾に関連して雑誌取材を受けたことがあった。

その雑誌が出てきた。別冊宝島27 機械オンチに捧げるパソコン・ブック 1982年1月11日発行。
サムネイル画像クリックで拡大。

機械オンチに捧げるパソコンブック 表紙

機械オンチに捧げるパソコンブック裏表紙
機械オンチに捧げるパソコンブック記事

2011年2月 3日

ホテル・イル・パラッツォ バルナ・クロッシングのムービングミラーシステム 1989

1989年、福岡市にオープンするホテル・イル・パラッツォ地下のディスコ「バルナ・クロッシング」ダンスフロア内ムービングミラーシステムの制御系を担当することになった。

赤・青・緑の反射光を持つ40cm角くらいのダイクロイックミラーを9*9枚並べてそれそれのミラーにXY角度制御するサーボモーターが取り付けられている。壁面に取り付けられたこれらのミラーに反対側の壁面から高輝度放電ランプ(HID)で光を当て、ミラー面の動きと動くミラーの反射光で演出効果を上げるものである。
このページの画像上から6,7枚目の「ダンスフロア」に写っている。下がミラーを正面から見たもので、上がランプの投影部とミラーからの反射。
まず問題になったのは9*9*2(XY)=162chのアナログ信号をコントローラーPC(PC-9801)からミラーまでどうやって引くかであった。しかもコントローラーからミラーまでは数十メートルある。そこで98の拡張スロットに挿したカノープスのZ80ボードにD/Aコンバーターなどの拡張回路を付加してAMX出力用のソフトウェアをボード上で走らせておき、98からはデータを投げるだけでAMX出力できるようにした。ミラー側は市販のAMXデコーダーで受けて各サーボモーターに分配した。AMXはDMXの前の照明用多チャンネル信号伝送用の規格で、192chまでのアナログ電圧を時分割で送れた。
PC上ではミラーの動きのパターンを複数作成して再生しながら、複数のトラックボールでスピードやミラーの動きにバリエーションを与えられるアプリケーションソフトを作成し走らせた。このソフトでミラー面を水面のように波打たせたり、反射光が円形になるような動きをミラー間に遅延を与えて動かしたりすることができた。

まさにバブル期だけあってバルナ・クロッシングの内装は隅から隅までデザインされ、目に入るほとんどのものがデザインされた特注品だった。なにしろダンスフロアの床が平面でなかった(笑)。地中に埋まった巨大な卵の一部が顔をのぞかせているように床が盛り上がっていたのである。

2011年1月29日

戸川純・レーダーマンの小道具電飾 1984

1984年戸川純さん(以下敬称略)のレーダーマン発表ライブで、右腕に装着するロボットアーム風カバーからレーザーを照射する仕掛け作りとオペレーションを勤務先が手掛けることになった(ロボットアームは他の方が製作されたもの)。

私はロボットアームと髪飾り(カチューシャ)の電飾装置製作と取り付けを担当した。光っているのは鉄道模型などに使われていた麦球である。LEDにしなかったのはステージ上での光量と指向性を考えたためだったと思う。ラジコン用のニッカドバッテリーを電源にして、UV-EPROMに書き込んだ点滅パターンをカウンターで読み出し、麦球のグループごとに点滅させた。バッテリーとコントローラーは腰のあたりに着けていた。今ならワイヤレスDMXで外部から曲に同期させようということになるだろう。
夜のヒットスタジオに戸川純が出演する日の午後に電飾が光らないと連絡が入って来た。急いで河田町のフジテレビに駆けつけて楽屋で修理。単純な接触不良だったか動きによる断線だったか、まぁ故障はすぐに直った。その日はそのまま本番まで付き合っていたのだが曲始まりでしばらく電飾が点灯しない。「あれっ、純ちゃんスイッチ入れ忘れてる」とアルファの担当者がつぶやく中、彼女はスイッチに手を伸ばし(肘の内側あたりにスイッチがあり彼女がONしているのが分る)事なきを得た。

こちらの動画では麦球のカラーとロボットアームの電飾が綺麗に見えている。

2011年1月26日

LMD-649の製作 1981

東芝EMIのエンジニアMさんの依頼で、サンプラーLMD-649のコントロールロジックの設計と基板・本体の製作をすることになった。勤務先代表のYさんがMさんと知り合いだったことで仕事が来たようだ。

A/D,D/A基板はMさんが東芝の研究所に依頼して製作したものと記憶している。さすが研究所と感じたのはその基板の仕上がりで、手作りながらA/D,D/A周りがしっかり金属板を半田付けした箱でシールドされていたことである。

その基板とバスラインに合わせてロジック基板を設計・製作(配線)し、基板ラックをケースに組み込みスイッチ類・7セグLED・ボリュームなどをパネルに取り付け配線した。

録音はメモリアドレス0からスタートしてメモリ終わりで終了、再生は16進デジタルスイッチで開始アドレスと終了アドレスを設定しサンプリング音を聞きながら調整した。と思っていたが画像を見るともうひとつデジタルスイッチが付いている。これは使ってたっけ?前のアクリルカバーのついたこちらの画像だと隠れているように見える。

ケースはアキバで売っていたCRT・キーボード一体型PC or ターミナル用樹脂製ケースである。最大9インチ程度のCRTを組み込めるもの。前出のOMIYAGEで照明卓として使われているのと(ケース下部が色違いだが)同じものだと思う。

上蓋だけ大きくして18インチくらいまでのCRTを入れられるものもあった。この後そのケースを自分で買い、CRT出力回路まで載ったCP/M用Z80CPUオールインワンボードを個人輸入し組み立て(キットで買ったと思う)アキバで買った裸のCRTユニットと組み合わせてCP/Mマシンを自作したりした。

この後ファンハウスに移られたMさんはLINDAというサンプリングシステムを開発され、私はPC-9801上での波形編集ソフト作成のお手伝いをすることになる。

2011年1月25日

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1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

The Beeでの休みなしのアルバイトをようやく他人に引き継いたあと、私は前出Yさんの設立した会社に入った。

1980年、Yさんの知り合いの照明会社がYMOの武道館コンサートを担当することになり、ステージ電飾の仕事が私のところへやって来た。

PC-8001をコントローラとして使うことにし、拡張ボックス(PC-8012)ユニバーサルボードにインターフェース回路を組み、曲に合わせてプランを考えBASICで電飾プログラミングをし、コンサート本番でオペレーションをした。今ならメディアサーバーLEDパネルでも制御するところだが、当時は普通にパネル数分電球が入っていて1つ1つリレーでON/OFFしていた。100個以上のリレーをI\Oポートのビットに割り当てトランジスタアレーで駆動したのである。

OMIYAGE22ページ左下に写っているのが武道館での私の仕事場。

PC-8001本体からフラットケーブルで後ろの拡張ボックスに接続されているのがわかる。その上にビクターの9インチグリーンモニタがあり、その上の箱はLEDを実際のパネル数分並べて作った電飾モニター。何しろ本番まで実物のパネルが存在しないのでこれでシミュレーションして電飾パターンを作成したのだ。

PC-8001の右に少し見えているのは当時まだ高価だった5.25インチフロッピィドライブ。これは確か工人舎の2ドライブ入りのやつで¥248,000位だった。フロッピィのモーターはダイレクトドライブならぬベルトドライブである。この頃松武さんの使っていたシーケンサーはカセットにデータをセーブしていたので、リハである曲を演奏することになるとデータロード時間が結構かかった。こっちはフロッピィだったので楽々である(笑)。本番ではシーケンサーを2台並べて次の曲データをロードしつつ演奏していたと思う。

この仕事場の場所はどこだったかというとステージ矢野顕子さんのすぐ後ろ、見上げると壁と床のすきまからアッコちゃんの足首が見えるのだった。

電飾パターンはファンクションキーやスペースキーでタイミングを合わせたりパターンを切り替えられるようになっていて、PA屋さんに引いてもらったモニタースピーカーを聞きながらマニュアルでオペレーションしていた。松武さんから何か信号をもらって同期させようかという話もありちょっと打ち合わせさせていただいた記憶もあるが、どうインターフェースをとるかなど解決するのに時間が無く同期は実現しなかった。

ちなみに私がコントロールしていたのは背後の壁面だけで、床面は(本業の)電飾屋さんが担当していた。インカムで切り替えタイミングを出しながらオペレーションしていたので壁と床の電飾は少しずれている。

今ビデオで残っているのはフジカセットの招待日のものだが、この日だけ数曲曲目が異なっていた。

Cosmic Surfin’もこの日しか演奏しなかったと思う。というのもこの日この曲を演奏することになって前日の夜遅くまで電飾パターンを作成した記憶があるからだ。

打ち合わせで使った舞台図面のコピー(1)(2)。この図だと壁面と床面はなめらかにつながっているが実際にはつながっておらず、床面の奥行きもこの図の半分程度である。

田町駅の近くのアルファのスタジオでリハーサルを見たり、細野さんに来てもらって電飾モニタ上でパターンを再生して意見をいただいたりしたのが懐かしい。

2011年1月24日

1980 続 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

カテゴリー:YMO

The BeeにYMOがやって来た 1979

1979/6/18(正確な日付は今回検索して知ったのだが(笑))The BeeでYMOのライブが行われた。
この日も私はレーザーのオペレーションをしていて、ライブ中ステージ背後のスクリーンにリサージュ図形を出したりしていた。リハーサルはしたのだろうか、したような気はする。
このライブの画像や動画が残っているならぜひ見たいものだが、個人で持てる小型ビデオデッキ一体型カメラなんて無い時代だから残っていてフィルム画像だろうか。
私はキーボードが橋本一子さんだったと思っていたがこちらのページによればその時のキーボードは矢野顕子さん。

この後またYMOと仕事で関わることになるとはまだ知る由もなかった。

2011年1月23日

六本木 The Bee 1978 続き

The Beeの(当時私は店長と思っていた)プロデューサーは岡田大貮氏、30年以上ぶりに拝見しとても懐かしい。

たまに貸切イベントが開かれることがあり、今でいうショーケースライブのようなライブが行われることもあった。ファッション系イベントのときトイレに行ったら隣に三宅一生氏がいたなんてことも。

TV・雑誌の取材もたまにあり、TV取材では「独占!女の60分」や「出没!!おもしろマップ」など。「女の60分」はレポーター役の女性がレーザーのオペレーションをするという企画だったのを覚えている。

店が終わるのは夜中3時過ぎ、バイトのウエィターさんは始発まで待っていたようだが私はなんと毎日タクシーで帰っていた。片道3000円くらいだろうか?半年以上それを続けていたのだ。DJに「近くに部屋借りたほうが安いよ」といわれたがもっともである。

2011年1月21日