六本木 The Bee こぼれ話 1979

The Beeで使用していたレーザーはSP(スペクトラ・フィジックス)製のクリプトンガスレーザーで3相200V電源と冷却水(水道蛇口全開以上の流量)を必要とし、ベースは金属製だがレーザー管本体は外側の水冷ジャケットも含め総ガラス製でパッと見完全に実験器具の印象の物。

ある日、調整だったか見学だったかで日本代理店丸文の技術の方が来られたことがあった。日本初のディスコ設置に興味津々という感じで、完全に見学モードの女性社員の方も一緒だった気がする。当時他の納入先と言えばおそらく企業か大学の研究室だったのではないだろうか。

その時に聞いた話。その技術の方は1970年大阪万博鉄鋼館スペース・シアターに設置されていたレーザーディスプレー(私も中学生の時に観た!)の面倒を見るために常駐されていてなかなかおいしい仕事だったとのこと。大企業が大金を投入していたのだから待遇も良かったのだろう。

「SC/MPによるマイコン入門」の雑誌記事 4 1978

「SC/MPによるマイコン入門」連載第4回(最終回)の記事。

改めて記事を読んでみると電子工作初心者向けに分かりやすくかつ製作上の注意点がしっかり押さえられており、自分が作る気になったのも納得である。当時、なんとかギリギリ理解できて手が届きそうな感覚だったと思う。

「SC/MPによるマイコン入門」の雑誌記事 2,3 1977

以前初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978で1977年10月号から1978年1月号まで月刊誌トランジスタ技術に掲載された「SC/MPによるマイコン入門」を読んで人生初のコンピューターを製作したことを書いた。

雑誌記事は1から4まで4回掲載されたのだが、そのうち2から4までの掲載誌が出てきた。1977年11月号と1977年12月号の記事を以下に載せる。47年前の記事である。

1970年代後半当時の個人で手に入れられるコンピューターに関しては「1970年代後半期におけるマイコン・キット製品 vs PC製品」という論文に詳しく解説されている。

SANYO MBC-200 を使っていた頃 1983

昔、仕事で三洋電機の8ビットPC MBC-200を使っていた。CP/M上でPascal MT+を走らせてZ80用の組み込み用ソフトウェアなどを作成していた。ROM,RAM領域を別々に指定でき便利だった。448,000円とずいぶん高く感じるが、当時はCRTやFDDも価格が高かったので全部入りと考えると割安だったのかもしれない。また5.25インチFDDが2DDで容量の大きさも魅力だったような気がする。

写真に写っているのは私で、何かの波形をオシロで見ている。私の奥にMBC-200本体とキーボードが見えている。左上のベージュとオレンジのキーはROMライターだが側面の2段のフラットケーブルコネクタが気になりZ80 ICE兼用だった?と検索したらやはりROMライター兼Z80 ICE(インサーキットエミュレータ) コンピュータリサーチ社CRC-80WXだった。Z80組み込みボードを設計し作成するまでは良いがモニタプログラムも外部との通信手段も無くデバッグできない。そこでこのZ80 ICEの出番、CPUソケットにCPUではなくICEのエミュレータープラグ?を挿しCPUの振る舞いをさせながらデバッグするのである。

左の角ばったCRTターミナルみたいなのはおそらくこのボードをボードだけ個人輸入して裸のCRTモニタと一緒にケースに入れ組み立てたCP/Mマシン。奥の銀色の箱はそのCP/Mマシン用に中古の8インチFDDを2台買って組んだもの。どうして5.25インチFDDでは無く巨大な8インチFDDにしたのか不明。こちらのCP/Mマシンは仕事とは関係なく個人で買った物だが家に置き場がなく仕事場に置いてあったのかも。

ちなみにこのCRTターミナルみたいなケースの背の低いモデルをLMD-649で使用した。

EPSON エプソン QC-10 のカタログ 1983

エプソンQC-10のカタログ。8ビットPCとして最上級クラスの印象。価格もセイコーエプソン(Wikipedia)によれば本体価格398,000円、グリーンモニタ54,000円、キーボード43,000円だった。QC-10を使ったことはないが周辺機器の音響カプラCP-20は最初にパソコン通信を始めた時に使っていた。

このカタログは1983年5月現在とされているが前年10月には16ビットPC初代PC-9801が発売されており、1983年10月には5.25FDD2台内蔵のPC-9801Fが398,000円で発売されている。このオフィス向け最上級8ビットPCはどれくらい売れたのだろう?

SubLOGIC社製8080/Z80 3D graphics package 1978

1979年から1980年にかけてシャープ製のZ80ボードコンピューターSM-B-80Tに256*256ドットのモノクログラフィクスボードを追加したセット(このページ内下部のTVとキーボードが接続されている画像)を使って3Dワイヤフレームグラフィックを作成した。

その際Z80で作動するsubLOGIC社製3D グラフィクスパッケージ(ソフトウェア)を購入し使用していた。どうやって購入したのかすっかり忘れたが直接メーカーに発注したかもしれない。そして送られてきたのが紙テープ!とダンプリスト!とマニュアルである。あいにく(笑)紙テープリーダーを持っていなかったのでダンプリストを手で打ち込んだ。

ダンプリストのプリントを発掘したので一部を載せる。マニュアルと、この3D グラフィクスパッケージで作成したアニメーション(リアルタイムで動かせるパワーは無かったので画面を8mmカメラでコマ撮り)の8mmフィルムが発掘出来たらまた載せたいと思う。

SubLOGIC社製8080/Z80 3D graphics package 1

8080/Z 80 グラフィックス ユーザー様、
8080/Z80 3D グラフィックス パッケージに関して、明確にしておく必要がある点が 2 つあります。
まず、現在 8080 アセンブリ言語で記述されたプログラムは 1 つしかありません。
専用の Z 80 プログラムは記述されていません。当初は 2 つのバージョンがある予定でしたが、新しい Z 80 命令ではプログラムの実行時間が実際には短縮されないことが判明しました。算術シフトなどの新しい命令によってプログラムが高速化されると期待されていましたが、実際にはメモリ領域が節約されただけでした。
たとえば、算術右シフトでは、8080 命令の組み合わせ「RLC、RAR、RAR」の場合 3 バイトのメモリが必要ですが、実行には Z 80 命令で 23 クロック、8080 マクロで 12 クロックしかかかりません。したがって、3DG80.V02 プログラムは 3DGZ8.VOI プログラムと同じであり、配布されるのは 1 つのテープとリストのみです。
2 つ目のポイントは、実際には 3D マニュアルの更新です。一部の 8080/Z80 3D グラフィックス マニュアルでは、35 ページが 31 ページと 32 ページの間にまとめられています。このページは、もちろん間違った場所にあるため、MATROX インターフェイス プログラム全体を読むには、数ページ前 (または前) に移動する必要があります。また、37 ページでは、いくつかのコード セクションが入れ替わっており、行 70 ~ 7F が完全に欠落しています。添付の​​ 37 ページの代替ページにより、このエラーが修正されます。この代替ページは、元の 37 ページを完全に置き換えます。
これらのエラーによりご不便をおかけしたことをお詫び申し上げます。弊社のソフトウェアに関するご意見や修正があれば、ぜひお寄せください。

YMOと自分、3つの関わりまとめ 1979~1981

六本木 The Bee

私は1978年末から六本木のディスコ「The Bee」でレーザーオペレーターのバイトをしていた。1979年6月に「The Bee」で関係者向けのYMOのライブが行われた。

六本木 The Bee 1978

六本木 The Bee 1978 続き

The BeeにYMOがやって来た 1979

YMO The Beeライブ画像 1979

The BeeでYMOライブが行われた経緯など (外部リンク口は災いの”素”)

The Bee アーカイブ

YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館公演 1980

1980年のYMO武道館公演でステージ背後の電飾制御を担当(インターフェース製作・プログラミング・オペレーション)した。

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

1980 続 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

32年前の今日 “YMO FROM TOKIO TO TOKYO” 1980

武道館公演関連

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾プレゼン画面

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート進行表

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート トラック表

YMOアーカイブ

LMD-649の設計・製作

最初期のサンプラーLMD-649のAD/DA基板以外の制御ロジック設計・製作・本体組み立てを行った。制御ロジックは74LSシリーズ+エブレンのラッピング基板を使用した。

LMD-649の製作 1981

月刊ロッキンf 1982年3月号 LMD-649の記事 1982

LMD-649に使用したメモリボードMD-64 1981

LMD-649 関連

LMD-649のその後 LMD-649mini・REALBOX 1983

LMD-649のその後 LINDAシステム 1984

突然解けた「オレンジ」の謎 2019

LMD-649 アーカイブ

 

 

浅草寺五重塔に上ってみた 8 2024

今年も12月8日に回向法要と牌殿参拝のため浅草寺五重塔院へお参りし、聖仏舎利参拝へ五重塔に上ってきた。

 

浅草寺五重塔に上ってみた 7 2023

浅草寺五重塔に上ってみた 6 2023

浅草寺五重塔に上ってみた 5 2022

浅草寺五重塔に上ってみた 4 2020

浅草寺五重塔に上ってみた 3 2019

浅草寺五重塔に上ってみた 2 2018

浅草寺五重塔に上ってみた 2017

DAHON DeftarのタイヤをPanaracer Minits Toughに交換 2024

DAHON Deftarに装着されていたタイヤはKENDA K1085 20*1.35で何の問題も無かったが、走行距離が1900kmになり特に後輪の接地面が平らに減ってきた。また平らに減り始めてから減るスピードが加速しているように思いショップで前後タイヤを交換した。交換したタイヤはショップお勧めのPanaracer Minits Tough 20*1.25。

タイヤ交換後ショップから乗って帰る際、乗り心地は以前と同じように硬いが衝撃の角が丸まっているように感じた。家でタイヤの空気圧を測ると80psi。Minits Toughの適正空気圧は65~100psi。KENDAの時は適正空気圧上限の85psiで乗っていた。

ちなみに自転車に乗るときの私の体重は荷物も含め70kgほど。最初試しにMinits Toughの上限100psiにして乗ってみるとこれは硬すぎた。荒れた舗装面だと細かく跳びはね続けるような感じ。どこかに転がり抵抗と駆動力のバランスポイントがあると考え現在は85psiで乗っている。

さてタイヤ交換してスピードアップしたりはっきり何か良くなったか?というと残念ながらあまり変わらない。タフと銘打たれているだけにKENDAより長持ちしてくれることに期待しておこう。

映画「とんかつ大将」に見る浅草松屋屋上、台東区象潟、富士小学校旧校舎、浅草警察署旧庁舎 1952

浅草松屋屋上にあったスカイクルーザーについて以前書いた。1952年公開の映画「とんかつ大将」の中に浅草松屋が登場すると知り、もしやスカイクルーザーが映っているかとDVDを買って観てみた。とんかつ屋の話かと思うとさにあらず、とんかつ大将というあだ名の青年医師(佐野周二)が主人公。

ちゃんと浅草松屋の屋上が登場し飛行塔と豆汽車が映るのだが、なんと登場人物はスカイクルーザー乗り場の出口付近にいてスカイクルーザー側から撮っているので肝心の乗り物が映っていない!左手に時計塔、奥に駒形橋が見えている。

上の取り消し線は私の勘違いで映画撮影当時のスカイクルーザーが未だ無かった風景がこの映画の冒頭に映っていた⁽¹⁾。以下の画像は映像を部分拡大したもの。スカイクルーザーがオープンしたのは1952年7月2日で映画撮影後のこと⁽¹⁾。

映画で主人公たちの立っていた場所は戦前の航空艇(ロープウェー)乗場を改装した「東京ピーク」という名前の展望台だった⁽¹⁾。下の画像に「ピーク」「展望」等の文字が見える。スカイクルーザー同様、東京ピークというネーミングもずいぶん格好いい。前にも書いたがスカイクルーザーは日本航空ボーイング747-400の愛称だったりそこから派生してホテル日航大阪バーラウンジの名前だったりしたが、東京ピークもそのものではないがパークハイアット東京ピークラウンジがある。

意外なことに他に映画にはとても懐かしい風景が映っていた。「とんかつ大将」は私の生まれる前の映画だが、後に私が通うことになる台東区立富士小学校(旧校舎)や隣の浅草警察署(旧庁舎)が登場していた。

主人公が男を伴い浅草警察署へ向かって歩くシーンがあり、二人の歩く姿を横から捉えながらカメラも移動する。そのシーンの背景に興味深い風景が映っている。映画のカット順に観ていくとまず象潟(きさかた)二丁目の文字。古い町名である。

次に町内の掲示板に「隅田川寒中水泳大会」のポスター。台東区主催のようだ。映画公開の1952年(昭和27年)にはまだまだ隅田川の水もきれいだったのかと思いきや1953年(昭和28年)を最後に中止されたとのこと。

二人が立ち止まる背景に台東区立富士小学校の煉瓦塀が見える。ああ、こんなだったなぁと思い出が蘇る。私が通っていた頃の旧校舎は1923年(大正12年)に竣工し9月1日に始業式を行い、いよいよ新校舎で新しい学期が始まるという日に関東大震災に遭遇するという数奇なスタートを切っている。下が卒業アルバムの校舎写真。

屋上の塀に見られる縦長のスリットが煉瓦塀にもあることに気付く。今見ると独特な建築デザインだ。塀で思い出したことがある。在学時暖房はコークスを燃料にしただるまストーブで校舎と煉瓦塀の間にコークス置き場があり、日直の二人が始業前専用バケツを持ってコークスを取りに行き、新聞紙と木の切れ端を焚き付けにしてコークスに火をおこすのだった。後年焚き付けに豆炭が加わったのを覚えている。校舎の写真を見てほしい。校舎角から右側、教室窓の一番上のガラスが丸穴の開いたブリキになっているところがある。それがだるまストーブの煙突用の穴でストーブ使用期間はそこからH型の煙突が出るのだ。

校舎1階窓の下に斜めになった窓のような物があるがそれは地下室用の明かり取りで、ガラスではなく金網が張られており地下は物置だったような気がする。また写真に朝礼台が見えており台の下横長の一角が茶色くなっているが実はここはプールで、使用しない間は枕木のような木をびっしり並べ蓋にして校庭として使っていた。狭い敷地を活用する工夫だったのだろう。

このカットの左手も富士小学校の煉瓦塀(こちらは高い)と校舎で、十字路の向かいに懐かしい浅草警察署旧庁舎が見えている。入口が中2階くらいの高さで両脇に階段がある。浅草警察署の沿革によれば旧庁舎が竣工したのも大正12年。同時期に2つ並んで大きな建物が建ったようだ。

1.観覧車通信 映画「とんかつ大将」と浅草松屋

浅草松屋のスポーツランド