Instagramに初めて観るこんな画像が! レーザーの色が綺麗に写っている。自分がオペレーションしていたアナログ波をミックスした図形を思い出した。
画像左下に反射が見えているので雑誌か何かを撮影した物だろうか? おそらく別カットもありそうだ。
46年近く経って新しい画像に巡り会えるとは。。。
と思ったらまた別な画像が。こちらはやや粗いが。。。
YouTube Tokyo Skylineチャンネルのウェブマスターが印象に残る仕事や出来事を綴るブログ
Instagramに初めて観るこんな画像が! レーザーの色が綺麗に写っている。自分がオペレーションしていたアナログ波をミックスした図形を思い出した。
画像左下に反射が見えているので雑誌か何かを撮影した物だろうか? おそらく別カットもありそうだ。
46年近く経って新しい画像に巡り会えるとは。。。
と思ったらまた別な画像が。こちらはやや粗いが。。。
The Beeで使用していたレーザーはSP(スペクトラ・フィジックス)製のクリプトンガスレーザーで3相200V電源と冷却水(水道蛇口全開以上の流量)を必要とし、ベースは金属製だがレーザー管本体は外側の水冷ジャケットも含め総ガラス製でパッと見完全に実験器具の印象の物。
ある日、調整だったか見学だったかで日本代理店丸文の技術の方が来られたことがあった。日本初のディスコ設置に興味津々という感じで、完全に見学モードの女性社員の方も一緒だった気がする。当時他の納入先と言えばおそらく企業か大学の研究室だったのではないだろうか。
その時に聞いた話。その技術の方は1970年大阪万博鉄鋼館スペース・シアターに設置されていたレーザーディスプレー(私も中学生の時に観た!)の面倒を見るために常駐されていてなかなかおいしい仕事だったとのこと。大企業が大金を投入していたのだから待遇も良かったのだろう。
「SC/MPによるマイコン入門」連載第4回(最終回)の記事。
改めて記事を読んでみると電子工作初心者向けに分かりやすくかつ製作上の注意点がしっかり押さえられており、自分が作る気になったのも納得である。当時、なんとかギリギリ理解できて手が届きそうな感覚だったと思う。
以前初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978で1977年10月号から1978年1月号まで月刊誌トランジスタ技術に掲載された「SC/MPによるマイコン入門」を読んで人生初のコンピューターを製作したことを書いた。
雑誌記事は1から4まで4回掲載されたのだが、そのうち2から4までの掲載誌が出てきた。1977年11月号と1977年12月号の記事を以下に載せる。47年前の記事である。
1970年代後半当時の個人で手に入れられるコンピューターに関しては「1970年代後半期におけるマイコン・キット製品 vs PC製品」という論文に詳しく解説されている。
昔、仕事で三洋電機の8ビットPC MBC-200を使っていた。CP/M上でPascal MT+を走らせてZ80用の組み込み用ソフトウェアなどを作成していた。ROM,RAM領域を別々に指定でき便利だった。448,000円とずいぶん高く感じるが、当時はCRTやFDDも価格が高かったので全部入りと考えると割安だったのかもしれない。また5.25インチFDDが2DDで容量の大きさも魅力だったような気がする。
写真に写っているのは私で、何かの波形をオシロで見ている。私の奥にMBC-200本体とキーボードが見えている。左上のベージュとオレンジのキーはROMライターだが側面の2段のフラットケーブルコネクタが気になりZ80 ICE兼用だった?と検索したらやはりROMライター兼Z80 ICE(インサーキットエミュレータ) コンピュータリサーチ社CRC-80WXだった。Z80組み込みボードを設計し作成するまでは良いがモニタプログラムも外部との通信手段も無くデバッグできない。そこでこのZ80 ICEの出番、CPUソケットにCPUではなくICEのエミュレータープラグ?を挿しCPUの振る舞いをさせながらデバッグするのである。
左の角ばったCRTターミナルみたいなのはおそらくこのボードをボードだけ個人輸入して裸のCRTモニタと一緒にケースに入れ組み立てたCP/Mマシン。奥の銀色の箱はそのCP/Mマシン用に中古の8インチFDDを2台買って組んだもの。どうして5.25インチFDDでは無く巨大な8インチFDDにしたのか不明。こちらのCP/Mマシンは仕事とは関係なく個人で買った物だが家に置き場がなく仕事場に置いてあったのかも。
ちなみにこのCRTターミナルみたいなケースの背の低いモデルをLMD-649で使用した。
エプソンQC-10のカタログ。8ビットPCとして最上級クラスの印象。価格もセイコーエプソン(Wikipedia)によれば本体価格398,000円、グリーンモニタ54,000円、キーボード43,000円だった。QC-10を使ったことはないが周辺機器の音響カプラCP-20は最初にパソコン通信を始めた時に使っていた。
このカタログは1983年5月現在とされているが前年10月には16ビットPC初代PC-9801が発売されており、1983年10月には5.25FDD2台内蔵のPC-9801Fが398,000円で発売されている。このオフィス向け最上級8ビットPCはどれくらい売れたのだろう?
1979年から1980年にかけてシャープ製のZ80ボードコンピューターSM-B-80Tに256*256ドットのモノクログラフィクスボードを追加したセット(このページ内下部のTVとキーボードが接続されている画像)を使って3Dワイヤフレームグラフィックを作成した。
その際Z80で作動するsubLOGIC社製3D グラフィクスパッケージ(ソフトウェア)を購入し使用していた。どうやって購入したのかすっかり忘れたが直接メーカーに発注したかもしれない。そして送られてきたのが紙テープ!とダンプリスト!とマニュアルである。あいにく(笑)紙テープリーダーを持っていなかったのでダンプリストを手で打ち込んだ。
ダンプリストのプリントを発掘したので一部を載せる。マニュアルと、この3D グラフィクスパッケージで作成したアニメーション(リアルタイムで動かせるパワーは無かったので画面を8mmカメラでコマ撮り)の8mmフィルムが発掘出来たらまた載せたいと思う。
8080/Z 80 グラフィックス ユーザー様、
8080/Z80 3D グラフィックス パッケージに関して、明確にしておく必要がある点が 2 つあります。
まず、現在 8080 アセンブリ言語で記述されたプログラムは 1 つしかありません。
専用の Z 80 プログラムは記述されていません。当初は 2 つのバージョンがある予定でしたが、新しい Z 80 命令ではプログラムの実行時間が実際には短縮されないことが判明しました。算術シフトなどの新しい命令によってプログラムが高速化されると期待されていましたが、実際にはメモリ領域が節約されただけでした。
たとえば、算術右シフトでは、8080 命令の組み合わせ「RLC、RAR、RAR」の場合 3 バイトのメモリが必要ですが、実行には Z 80 命令で 23 クロック、8080 マクロで 12 クロックしかかかりません。したがって、3DG80.V02 プログラムは 3DGZ8.VOI プログラムと同じであり、配布されるのは 1 つのテープとリストのみです。
2 つ目のポイントは、実際には 3D マニュアルの更新です。一部の 8080/Z80 3D グラフィックス マニュアルでは、35 ページが 31 ページと 32 ページの間にまとめられています。このページは、もちろん間違った場所にあるため、MATROX インターフェイス プログラム全体を読むには、数ページ前 (または前) に移動する必要があります。また、37 ページでは、いくつかのコード セクションが入れ替わっており、行 70 ~ 7F が完全に欠落しています。添付の 37 ページの代替ページにより、このエラーが修正されます。この代替ページは、元の 37 ページを完全に置き換えます。
これらのエラーによりご不便をおかけしたことをお詫び申し上げます。弊社のソフトウェアに関するご意見や修正があれば、ぜひお寄せください。
私は1978年末から六本木のディスコ「The Bee」でレーザーオペレーターのバイトをしていた。1979年6月に「The Bee」で関係者向けのYMOのライブが行われた。
The BeeでYMOライブが行われた経緯など (外部リンク口は災いの”素”)
1980年のYMO武道館公演でステージ背後の電飾制御を担当(インターフェース製作・プログラミング・オペレーション)した。
1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた
1980 続 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた
32年前の今日 “YMO FROM TOKIO TO TOKYO” 1980
武道館公演関連
1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾プレゼン画面
1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート進行表
1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート トラック表
最初期のサンプラーLMD-649のAD/DA基板以外の制御ロジック設計・製作・本体組み立てを行った。制御ロジックは74LSシリーズ+エブレンのラッピング基板を使用した。
月刊ロッキンf 1982年3月号 LMD-649の記事 1982
LMD-649 関連
LMD-649のその後 LMD-649mini・REALBOX 1983
DAHON Deftarに装着されていたタイヤはKENDA K1085 20*1.35で何の問題も無かったが、走行距離が1900kmになり特に後輪の接地面が平らに減ってきた。また平らに減り始めてから減るスピードが加速しているように思いショップで前後タイヤを交換した。交換したタイヤはショップお勧めのPanaracer Minits Tough 20*1.25。
タイヤ交換後ショップから乗って帰る際、乗り心地は以前と同じように硬いが衝撃の角が丸まっているように感じた。家でタイヤの空気圧を測ると80psi。Minits Toughの適正空気圧は65~100psi。KENDAの時は適正空気圧上限の85psiで乗っていた。
ちなみに自転車に乗るときの私の体重は荷物も含め70kgほど。最初試しにMinits Toughの上限100psiにして乗ってみるとこれは硬すぎた。荒れた舗装面だと細かく跳びはね続けるような感じ。どこかに転がり抵抗と駆動力のバランスポイントがあると考え現在は85psiで乗っている。
さてタイヤ交換してスピードアップしたりはっきり何か良くなったか?というと残念ながらあまり変わらない。タフと銘打たれているだけにKENDAより長持ちしてくれることに期待しておこう。