タワマン30年住まいからUR団地へ引っ越した件 2025

東京都中央区「リバーシティ21新川」35F 1995~ 「リバーシティ21イーストタワーズ2」15F 2000~ 江東区「ベルタワー」16F 2009~ と30年間タワーマンションに住んできて、2025年6月に東京を離れUR団地に引っ越した。

収入と将来の生活とを考えてのことだが引っ越しの状況や考えたこと感じたことを書いてみたい。負け惜しみと捉えられてももちろん構わないのだが。

引っ越し先としてURを選んだのは入居条件を満たしていれば誰でも入居可能であり民間賃貸の年齢や信用調査などの審査が無いから。ただし好条件の物件の空きは当然少なく、URの物件ページに掲載されて1週間も経たないうちに新しい借主が決まってしまう。今回の引っ越し先はリノベーション済みの部屋で同じ団地内の別なリノベーション物件をページで見つけたのがきっかけだったのだが、問い合わせるとまだリノベーション工事中で内覧可能日までは数日あり素直に待っていたら内覧可能日以前に借主が決まってしまった。実は仮契約制度があり仮契約から7日間は物件を押さえておけるのだった(仮契約は1物件だけ可能)。そこでその後今回の物件の掲載を見つけてすぐ団地を下見し(部屋はリノベーション中)雰囲気は良かったのでその足で現地案内所で仮契約した。仮契約中もURの別物件を内覧したが、結局リノベーション済みの今回の部屋の契約となった。

契約から入居可能日(鍵受取日)までは12日間ぐらいだったが原則その日から1ヶ月以内に引っ越すことが求められる(延長は可能)。私はぎりぎり1ヶ月以内に引っ越したが、契約からはなかなかせわしないスケジュールとなる。

さて引っ越し先の部屋はベルタワーと比べると広さは2/3、家賃管理費は1/3である。内覧時になんだか部屋が明るいことに気付いたがそれもそのはず南北両面に窓があるのだ。トイレとバスルームに窓があるなんて戸建ての実家以来である。いままで住んできた全てのマンションでトイレとバスルームに日はささず日中でも真っ暗だった。ついでに廊下が存在しない(階段の踊り場左右に玄関がある)ので廊下に面した部屋も無い。建物両側の窓を開ければ風が通り抜ける。建築年は1970年だが度重なる改良・リノベーションで設備的には今時のマンションだ。建築当時はBF型風呂釜だったであろう場所には新しい給湯器が付き洗面所でもキッチンでも当然お湯が出る。トイレにもコンセントがある。が、改良・リノベーションを繰り返した結果カバーに覆われた追加の配管・配線類があちらこちらに見られることになり建築当時からの給排水の太い鉄管も室内にむき出しだ。洗練からはほど遠いが70年当時からの建具に味もありこの感じが楽しめる人向きである(私は楽しい)。バスルーム入口の人研ぎだったりする。収納は少なくキッチン収納以外は押し入れしかない。押し入れに広い天袋があるのが救いである。

意外に感じるかもしれないがTV視聴とインターネット環境はベルタワーより良い。ベルタワーでは部屋のアンテナ端子では地上波しか観ることができずBS・CSを観るためにはケーブルテレビかアンテナ取付が必要だった。ケーブルテレビでは視聴料の他、指定のレンタルセットトップボックスしか使えないのでBS・CSアンテナを取り付けていた。こちらでは部屋のアンテナ端子(無料)で地上波・BS・CSが観られる。インターネット環境はより差が開きベルタワーはフレッツ光ネクストだったが機器室から部屋までは電話線を利用したVDSL接続で下り68Mbps位であり夜間はスピード低下することもあった。こちらでは部屋まで光ファイバーのフレッツ光クロスで今「みんそく」で計ってみたらIPv6接続で下り3032.77Mbps上り2344.56Mbpsだった。40倍以上速い。

長くなったので次につづく。。。

YMO The Beeライブの別画像 1979

Instagramに初めて観るこんな画像が! レーザーの色が綺麗に写っている。自分がオペレーションしていたアナログ波をミックスした図形を思い出した。

画像左下に反射が見えているので雑誌か何かを撮影した物だろうか? おそらく別カットもありそうだ。

46年近く経って新しい画像に巡り会えるとは。。。

と思ったらまた別な画像が。こちらはやや粗いが。。。

六本木 The Bee こぼれ話 1979

The Beeで使用していたレーザーはSP(スペクトラ・フィジックス)製のクリプトンガスレーザーで3相200V電源と冷却水(水道蛇口全開以上の流量)を必要とし、ベースは金属製だがレーザー管本体は外側の水冷ジャケットも含め総ガラス製でパッと見完全に実験器具の印象の物。

ある日、調整だったか見学だったかで日本代理店丸文の技術の方が来られたことがあった。日本初のディスコ設置に興味津々という感じで、完全に見学モードの女性社員の方も一緒だった気がする。当時他の納入先と言えばおそらく企業か大学の研究室だったのではないだろうか。

その時に聞いた話。その技術の方は1970年大阪万博鉄鋼館スペース・シアターに設置されていたレーザーディスプレー(私も中学生の時に観た!)の面倒を見るために常駐されていてなかなかおいしい仕事だったとのこと。大企業が大金を投入していたのだから待遇も良かったのだろう。

「SC/MPによるマイコン入門」の雑誌記事 4 1978

「SC/MPによるマイコン入門」連載第4回(最終回)の記事。

改めて記事を読んでみると電子工作初心者向けに分かりやすくかつ製作上の注意点がしっかり押さえられており、自分が作る気になったのも納得である。当時、なんとかギリギリ理解できて手が届きそうな感覚だったと思う。

「SC/MPによるマイコン入門」の雑誌記事 2,3 1977

以前初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978で1977年10月号から1978年1月号まで月刊誌トランジスタ技術に掲載された「SC/MPによるマイコン入門」を読んで人生初のコンピューターを製作したことを書いた。

雑誌記事は1から4まで4回掲載されたのだが、そのうち2から4までの掲載誌が出てきた。1977年11月号と1977年12月号の記事を以下に載せる。47年前の記事である。

1970年代後半当時の個人で手に入れられるコンピューターに関しては「1970年代後半期におけるマイコン・キット製品 vs PC製品」という論文に詳しく解説されている。

DIC川村記念美術館行き高速バスは東京駅ではなく始発停留所の東雲車庫乗車がお勧め 2025

2025年2月14日(金)、DIC川村記念美術館に初めて行ってみた。東京からの直通高速バスがある。マイタウンダイレクト高速バス 国立歴史民俗博物館⇔東京駅 路線である。

ちばグリーンバスのWebページを見ると実はこの高速バス東京駅始発ではなく東雲車庫始発である。バスの混雑度合いが分からず始発停留所から乗るのが良いだろうと東雲車庫 2月14日(金) 朝9:25発の国立歴史民俗博物館行きに乗った。乗客は私も含めて7名。

東京駅の京成3番乗り場に着くと想像を超える長蛇の待ち列である。乗り場の係員さんの「160名」という声が聞こえる。続々とお客さんが乗り、乗り込み終わりで再び「44名」の声。全くの推測だが乗り場で待っていた方の人数が160名、バスに乗車された方が44名かと思う。こちらによればバスの定員は53名(奇数?)とのことなので始発と合わせて51名乗車したということか。同じページによれば増便もしているらしいので1台目のバスに乗れなくても大丈夫な場合もあるようだ。

とはいえ東京駅の乗り場に早く行き並んで待っている時間があるなら、始発停留所の東雲車庫まで行った方が確実だろう。鉄道の最寄り駅はりんかい線東雲駅(徒歩8分)。都営バスの停留所なら深川車庫前(徒歩3分)東雲小学校前(徒歩3分)等となる。

美術館のレストランを予約していないと昼食難民になりかねないので飲み物と軽食等を買っておくことをお勧めする。今回私も買っていって助かった。

乗り場検索で注意が必要なのは「京成東雲車庫」と入力すること。別バス会社の違う場所の東雲車庫がある。

高速バスは予定より数分早く美術館に到着した。チケット売り場に行列ができていたのでオンラインチケットを買っておくのが良いだろう。平日だったせいか館内は混んでおらず見応えのある作品も多く、ほぼ1日かけて出かける価値は十分あった。展示については多くの方が書いておられると思うので庭園の水辺にいた白鳥とガチョウの写真をおまけに。。。

SANYO MBC-200 を使っていた頃 1983

昔、仕事で三洋電機の8ビットPC MBC-200を使っていた。CP/M上でPascal MT+を走らせてZ80用の組み込み用ソフトウェアなどを作成していた。ROM,RAM領域を別々に指定でき便利だった。448,000円とずいぶん高く感じるが、当時はCRTやFDDも価格が高かったので全部入りと考えると割安だったのかもしれない。また5.25インチFDDが2DDで容量の大きさも魅力だったような気がする。

写真に写っているのは私で、何かの波形をオシロで見ている。私の奥にMBC-200本体とキーボードが見えている。左上のベージュとオレンジのキーはROMライターだが側面の2段のフラットケーブルコネクタが気になりZ80 ICE兼用だった?と検索したらやはりROMライター兼Z80 ICE(インサーキットエミュレータ) コンピュータリサーチ社CRC-80WXだった。Z80組み込みボードを設計し作成するまでは良いがモニタプログラムも外部との通信手段も無くデバッグできない。そこでこのZ80 ICEの出番、CPUソケットにCPUではなくICEのエミュレータープラグ?を挿しCPUの振る舞いをさせながらデバッグするのである。

左の角ばったCRTターミナルみたいなのはおそらくこのボードをボードだけ個人輸入して裸のCRTモニタと一緒にケースに入れ組み立てたCP/Mマシン。奥の銀色の箱はそのCP/Mマシン用に中古の8インチFDDを2台買って組んだもの。どうして5.25インチFDDでは無く巨大な8インチFDDにしたのか不明。こちらのCP/Mマシンは仕事とは関係なく個人で買った物だが家に置き場がなく仕事場に置いてあったのかも。

ちなみにこのCRTターミナルみたいなケースの背の低いモデルをLMD-649で使用した。

EPSON エプソン QC-10 のカタログ 1983

エプソンQC-10のカタログ。8ビットPCとして最上級クラスの印象。価格もセイコーエプソン(Wikipedia)によれば本体価格398,000円、グリーンモニタ54,000円、キーボード43,000円だった。QC-10を使ったことはないが周辺機器の音響カプラCP-20は最初にパソコン通信を始めた時に使っていた。

このカタログは1983年5月現在とされているが前年10月には16ビットPC初代PC-9801が発売されており、1983年10月には5.25FDD2台内蔵のPC-9801Fが398,000円で発売されている。このオフィス向け最上級8ビットPCはどれくらい売れたのだろう?

SubLOGIC社製8080/Z80 3D graphics package 1978

1979年から1980年にかけてシャープ製のZ80ボードコンピューターSM-B-80Tに256*256ドットのモノクログラフィクスボードを追加したセット(このページ内下部のTVとキーボードが接続されている画像)を使って3Dワイヤフレームグラフィックを作成した。

その際Z80で作動するsubLOGIC社製3D グラフィクスパッケージ(ソフトウェア)を購入し使用していた。どうやって購入したのかすっかり忘れたが直接メーカーに発注したかもしれない。そして送られてきたのが紙テープ!とダンプリスト!とマニュアルである。あいにく(笑)紙テープリーダーを持っていなかったのでダンプリストを手で打ち込んだ。

ダンプリストのプリントを発掘したので一部を載せる。マニュアルと、この3D グラフィクスパッケージで作成したアニメーション(リアルタイムで動かせるパワーは無かったので画面を8mmカメラでコマ撮り)の8mmフィルムが発掘出来たらまた載せたいと思う。

SubLOGIC社製8080/Z80 3D graphics package 1

8080/Z 80 グラフィックス ユーザー様、
8080/Z80 3D グラフィックス パッケージに関して、明確にしておく必要がある点が 2 つあります。
まず、現在 8080 アセンブリ言語で記述されたプログラムは 1 つしかありません。
専用の Z 80 プログラムは記述されていません。当初は 2 つのバージョンがある予定でしたが、新しい Z 80 命令ではプログラムの実行時間が実際には短縮されないことが判明しました。算術シフトなどの新しい命令によってプログラムが高速化されると期待されていましたが、実際にはメモリ領域が節約されただけでした。
たとえば、算術右シフトでは、8080 命令の組み合わせ「RLC、RAR、RAR」の場合 3 バイトのメモリが必要ですが、実行には Z 80 命令で 23 クロック、8080 マクロで 12 クロックしかかかりません。したがって、3DG80.V02 プログラムは 3DGZ8.VOI プログラムと同じであり、配布されるのは 1 つのテープとリストのみです。
2 つ目のポイントは、実際には 3D マニュアルの更新です。一部の 8080/Z80 3D グラフィックス マニュアルでは、35 ページが 31 ページと 32 ページの間にまとめられています。このページは、もちろん間違った場所にあるため、MATROX インターフェイス プログラム全体を読むには、数ページ前 (または前) に移動する必要があります。また、37 ページでは、いくつかのコード セクションが入れ替わっており、行 70 ~ 7F が完全に欠落しています。添付の​​ 37 ページの代替ページにより、このエラーが修正されます。この代替ページは、元の 37 ページを完全に置き換えます。
これらのエラーによりご不便をおかけしたことをお詫び申し上げます。弊社のソフトウェアに関するご意見や修正があれば、ぜひお寄せください。

YMOと自分、3つの関わりまとめ 1979~1981

六本木 The Bee

私は1978年末から六本木のディスコ「The Bee」でレーザーオペレーターのバイトをしていた。1979年6月に「The Bee」で関係者向けのYMOのライブが行われた。

六本木 The Bee 1978

六本木 The Bee 1978 続き

The BeeにYMOがやって来た 1979

YMO The Beeライブ画像 1979

The BeeでYMOライブが行われた経緯など (外部リンク口は災いの”素”)

The Bee アーカイブ

YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館公演 1980

1980年のYMO武道館公演でステージ背後の電飾制御を担当(インターフェース製作・プログラミング・オペレーション)した。

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

1980 続 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾はPC-8001で制御されていた

32年前の今日 “YMO FROM TOKIO TO TOKYO” 1980

武道館公演関連

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサートステージ電飾プレゼン画面

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート進行表

1980 YMO FROM TOKIO TO TOKYO 武道館コンサート トラック表

YMOアーカイブ

LMD-649の設計・製作

最初期のサンプラーLMD-649のAD/DA基板以外の制御ロジック設計・製作・本体組み立てを行った。制御ロジックは74LSシリーズ+エブレンのラッピング基板を使用した。

LMD-649の製作 1981

月刊ロッキンf 1982年3月号 LMD-649の記事 1982

LMD-649に使用したメモリボードMD-64 1981

LMD-649 関連

LMD-649のその後 LMD-649mini・REALBOX 1983

LMD-649のその後 LINDAシステム 1984

突然解けた「オレンジ」の謎 2019

LMD-649 アーカイブ