ハウステンボスのオープニングCM 1992

ハウステンボスのオープン時、サウンドギャラクシーに仕事で関わったことなどを以前書いたが、ふと、ハウステンボスのオープニングCMを思い出した。あのピーター・オトゥールの出演したCMである。

バブルの余韻十分のキャスティングと雰囲気。
なんとYouTubeに動画があった。 運河編は覚えていたが、街並み編は記憶に残っていなかった。
このCMが撮影された時ホテル・ヨーロッパでは「ミンボーの女」が撮影中であり、監督の伊丹十三映画で共演したことのあるピーター・オトゥールと再会し旧交を温めた、と「ミンボーの女」のパンフレットに書いてあった(はず)。
 
この後、スティングが出演したシーガイアCMとバブル期リゾートCMの双璧をなしていると思う。

2013年8月18日

 
2013年12月追記
ピーター・オトゥール氏が亡くなられた。自分にとって意外だったのは、氏がまだ81歳だったこと。
上記のハウステンボスCM出演時は59歳だったことになる。演出上だったかもしれないが、もっとずっと老年のように見える。
 

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東京大空襲 1945

1945年3月10日、10万人が亡くなった東京大空襲の日である。
もちろんまだ私は生まれていない。

私の父は空襲の炎の真っ只中にいた。

父は祖父と一緒に実家の目の前の国民学校の講堂に避難していた。
現在の東京都立浅草高等学校である。
しかし、火の手が迫りここにいては危ないと講堂の高い窓から外に出て校庭の防空壕に身を隠し、祖父共々助かった。講堂にいた人々は皆亡くなったそうである。

母は千葉の方に家族で疎開していたが、空襲の翌日、東京の仕事先(学徒動員と思われる)にやって来てそこいらじゅうにある遺体を目撃している。

私の通っていた小学校は台東区立富士小学校だが、そこでも避難した多くの方が亡くなっている。
また、当時田舎に疎開していた生徒たちが不運なことに空襲の前日に一時帰宅しまきこまれたいう話も聞いた。

広島や長崎には公的な資料館があるのに東京には無い。

2013年3月10日

浅草松屋 スカイクルーザー 1959

私は浅草近くの生まれで子供の頃は親に連れられて浅草松屋屋上の遊園地に遊びに行っていた。屋上は遊園地だけなくミニ動物園も兼ねており、アシカ(オットセイ?)の飼われていた檻を覚えている。

デパート内には大食堂やホール、結婚式場まであって今に例えるならショッピングモールや遊園地が合体したような施設だったと言えるだろうか。
屋上には「スカイクルーザー」という名の回転式展望台(展望アトラクション)があった。
実家にあった古い写真の背景に浅草松屋が写っている。1959年に父が私を写したもので、隅田川の対岸にあったアサヒビールの工場の前あたりから撮られている。画像はクリックで拡大。
 
matsuya1.jpg
屋上を拡大すると
 
matsuya2.jpg
 
 
 
 
 
左からスカイクルーザー、中央に飛行塔、右に観覧車が見え、またデパート壁面に「結婚式場」「大食堂」などの文字が掲げられている。
 
 
 
matsuya3.jpg
右側の輪の部分がスカイクルーザーの観覧席である。
左側の建物から斜めに伸びているのが搭乗用のブリッジと思われる。
 
 
 
 
 
 
 
以下、他のページの画像にリンクさせていただく。クリックで元ページを表示。
 
Skycruiser3.jpg
この絵葉書では松屋屋上の飛行塔と観覧車が見え位置関係がわかる。
スカイクルーザー乗り場への階段はお客さんでいっぱいで人気があったようだ。
スカイクルーザーという名前、今でも古びた感じがしない。ミニバンのネーミングにありそうだ(笑)。
なんて言ってたらバーB747のネーミングに使われていた。
1950年登場当時どんなにかっこよく聞こえたことだろう。
 
 
 
Skycruiser1.jpg
左の画像でスカイクルーザーの構造がよく分かる。
観覧席の回転軸は垂直ではなくやや傾いている。
それだけでは斜めに回るだけだが、建物上の取付台と観覧席部分の間に見える多角柱を斜めにカットしたようなくさび型の部分が観覧席とは逆に異なるスピードで回転する仕掛けになっている。

回転式展望タワーのようなゆっくりとした回転ではあるが、2つの回転の組み合わせにより回転と傾斜方向の予測がつかずなかなかスリリングだった。

 
 
 
 
Skycruiser2.jpgこちらの画像は1955年(私の写真の4年前!)のアメリカ映画「東京暗黒街 竹の家」のワンシーン。
背景の赤い細長い屋根は仲見世と思われる。
観覧席には当然?!安全ベルトなどというものは無く、外側の手すりも頼りないくらい低い。
私の写っている写真を見直していただきたいが、松屋の隅田川側は2階建ての木造家屋ばかりであり、隅田川の反対方向に当たる左の画像方向でも最も大きな建物が国際劇場位で、スカイクルーザーから見た景色の開放感たるや素晴らしい(結構怖い)ものだったと記憶している。
 
 

Matsuya_amusement_park.jpg

浅草松屋の屋上遊園地営業終了を伝える左のニュース内に1971年当時の空撮映像があり、外観は異なっているがスカイクルーザーらしきものが映っている。
Wikipedia他のページでも1960年に撤去されたと書かれているが、さて実際はいつまで現役だったのだろう?
 
 
 

2013年1月3日

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ジャパマハイツ 1979頃

ナック マイ・シャローナ 1979で少し述べたYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家。平屋だがアメリカサイズ?で、玄関を入った広いLDKを中心に周りに8~10畳くらいの部屋が3つくらいあったと思う。冬は寒くLDKには煙突付きの大型石油ストーブ(ポット式)が置いてあった。上記のジャパマハイツのページでは”夏暑く”とあるが、夏は湿度が低く快適だったと記憶している。

福生駅を降りると駅前には送迎用の米軍基地ナンバーのクルマがとまっていたりした。

 ジャパマハイツには独特の雰囲気があり、住民同士の何かユルーイ連帯感みたいなものがあった。当時目新しい黄色いデリカが運搬車だったが、近所のジャパマハイツ内に全く同じ車がいてたまにすれ違うとお互い手を振ったりしていた。そっちの家には飼い犬がいて、こちらが前を通るとご主人のお帰りかと勘違いし通りに出てくるのだった(笑)。
 
まぁ良い話ばかりでもなく土地の権利関係がゴチャゴチャだとかで境界線でもめたり、自分の土地だと私道に杭を打ってクルマが通れなくなったりした、なんていう話があった。あと都市伝説めいた話だが、ある時空き地に家の建築が始まったが途中で中止され材木の山だけが残った。そのうち材木がちょっと減り、またしばらくするとちょっと減り、いつの間にか全部無くなってきれいになってしまったとか(笑)。
 
さて、Yさんのハウスの隣は大瀧詠一さんの小スタジオ兼趣味用?のハウスだった。これは偶然ではなくYさんは大瀧さんの古い知り合いだったから。覗かせていただいたことがあるが、ひと部屋はレコード棚にターンテーブルと小さなミキサー、テープレコーダー、スタンドマイクの置いてあるDJ用で確か当時そこでラジオ番組を制作なさっていたと思う。この画像かもしれない。
あとなぜか別の部屋には分解されかけのハモンドオルガンがあり、ズラリ並んだトーンホイールを見て「ほほぅー」と感心した覚えがある。ご本人も数回お見かけしたと思う。
2012年11月24日
2014年1月追記
2013年末に大瀧さんが亡くなられたとの新聞記事を読み、たいへん驚きました。
福生の仙人としていつまでも活躍されるであろうと思いこんでおりましたが。。。合掌。

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サウンド&レコーディング・マガジン 1984年10月号

サウンド&レコーディング・マガジンバックナンバーの目次を調べていたら、1984年10月号に”レコーディング・レポート/井上鑑”という記事があった。

1984年8月号のLINDAシステム記事中に井上鑑さんのインタビューが掲載されているので、このレコーディング・レポートでもLINDAシステムが登場しているかもれない。
どなたかこの号をお持ちでしたらご覧になってみてください。


2012年2月13日

Wikipedia日本語版”LMD-649″を編集してみた 2012.2.7

Wikipedia日本語版”LMD-649″の”機能”と”後継機”を編集してみた。

誤りの訂正、詳細情報の追加、そして出典が不明な部分に要出典を付けた。
要出典部分を書かれた方に出典を示していただけるだろうか?楽しみである。



2012年2月7日

“電子音楽 in JAPAN”の中の”オレンジ” 2001

“オレンジ”情報の作られ方についてもう少し考えてみたい。

Wikipedia日本語版”LMD-649″の項で参考文献とされている田中雄二著『電子音楽 in JAPAN』アスペクト(2001年)を手に入れ、LMD-649とオレンジがどう書かれているのか調べてみた。
文字がびっしり詰まった分厚い本(総ページ数587ページ)だが、ここを覗かれているような方にはお薦めである。巻頭から非常に興味深くて面白い内容。古本なら安いですよ。
この本の494,495ページにLMD-649に関する東芝EMIの村田さん(今までMさんと書いてきたが皆さんお分かりでしょうから。。。)の雑誌内での発言と松武さんへのインタビューが掲載されている。
ここに私の名前が出てきたのは意外だった。それはさておき以下の松武さんの発言(とされる文章)が現在のLMD-649とオレンジについての認識の下敷き(の一部?)になっていることは確かなようだ。以下引用。

松武「スペックは8ビットで、秒数は1.2秒でした。これをのちに改良したのが”オレンジ”という機械で、こっちはPC-98を使っていて、12ビットで2秒になるんです。LMDの中身はZ80で、膨大なRAM(64キロ・バイト×12個)が挿さってました」

また松武さんのこの発言のあとで補足として以下のことが書かれている。以下引用。
のちのオレンジはPC-98のディスプレイ上で音の加工やタイミングを設定できるようになるのだが(それでも音色バックアップは、まだカセットへの録音記録だった)、

これらの発言をまとめると以下のようになる。

LMD-649 : Z80使用 A/D,D/A 8ビット 録音時間 1.2秒 64KbyteRAM×12個
オレンジ : PC-9801使用  A/D,D/A 12ビット 録音時間 2秒 データはカセットへセーブ
なんとも絶妙ななずれかた(笑)である。この本は1998年に刊行された「電子音楽イン・ジャパン 1955~1981」の増補版なのでインタビュー時期は1998年以前だと思われる。
LMD-649から見てみよう。録音時間1.2秒は以前紹介した雑誌記事通りであり、64Kbyte(バイト)RAM×12個は64Kbit(ビット)RAM×12個の間違いとみなせばこれも記事通りである。ところがなぜかここにZ80が登場し、A/D,D/Aは8ビットになっている。8ビットならRAMは8個で済むはずなので矛盾している。以前述べたようにLMD-649のA/D,D/Aは12ビットでCPUは使用していない。松武さんの発言でも12ビットと述べられているものがある。
次にオレンジ、また新型が出てしまった(笑)。私の想像ではこれは後のLINDAシステムと一緒になってしまっているように思う。ディスプレイ上で音の加工やタイミングうんぬんはその通り。しかしなぜかここに至ってもデータはカセットへのセーブだというのが不思議だ。
オレンジについてはこのブログ(最下部)のようにZ80を使用と書かれているものもある。以下引用。
LMD-649はすぐに改良版が作られ、Apple II互換機用のケースに納めたことから、アップルをもじって「オレンジ」と呼ばれました。CPUにz80、RAM64kb×12。その後も数々のレコーディングの現場で活躍しました。

上の文章はご丁寧にRAM64kb×12というところまで
“電子音楽 in JAPAN” の松武さんの発言と同じであり、 それがWikipedia日本語版”LMD-649″の文章とミックスされている。”電子音楽 in JAPAN”の文章が少し分かりにくい書き方なので誰かが文脈を読み違えPC-98とZ80を間違えたか、誰かが間違って文章をコピペしたのだろう。

“電子音楽 in JAPAN” を読めば、Wikipedia日本語版の”後継機”の謎は解けるかと思ったのに、

当時秋葉原などに数多く出回っていた、Apple IIの互換機製作用のプラスチックケースに後継機は納められた。Apple IIそっくりになった外観から、アップルをもじって「オレンジ」と命名。以降、数々のレコーディングの現場で、ジャケットにはクレジットされることなく活躍した。

このようなことは全く書かれていない。
Wikipedia日本語版の著者は一体どこから上の内容を引っ張ってきたのだろう?謎は深まるばかり(笑)である。まだまだブログのネタになりそうだ。

2012年2月3日

EMULATORのカタログ 1981

月刊ログインアダルトソフトウェアコンテストの号を探したのだが今のところ見つかっていない。

代わりにEMULATORの日本語カタログと、SYNCLAVIER IIの英文カタログ・価格表が出てきた。
まずはEMULATORから。画像クリックで拡大。
EMULATORカタログ 表紙
EMULATORカタログ 裏表紙
EMULATORカタログ
2ボイス
¥1,950,000
4ボイス
¥2,500,000
8ボイス
¥3,120,000

2012年1月30日