COMKIT 8060,8061のカタログ、価格表 1978

アドテックシステムサイエンス社製、COMKIT8060,8061の価格表やカタログが出てきた。COMKITというだけあって共にパーツキットとなっている。

なぜキット販売されていたか価格表を見て分かった。既にラインナップされている同一バス規格のボード類を組み合わせてBASICコンピューターとして使えるようにした物だった。8060と8061の違いは拡張性で8061は外部にバスを引き出すことにより各種のインターフェースボードを使えるようにしてあった。なので以前書いたレーザーディスプレーコントローラーはおそらくCOMKIT8061を使用していたと思う。

またNIBLBASICを走らせるために自作したCRTターミナルのカナキーの並びが変だと以前書いたがCOMKIT8060,8061も全く同じ変な並びだった。NIBLBASICの仕様だったのか? 自作CRTターミナルではアルファベットしか使えなかったのだがCOMKITではカナが表示できたようだ。

以下の価格表のG その他の7. シュガートミーフロッピードライブ?!とは何ぞやと調べてみたらシュガート ミニフロッピードライブのミスタイプだった(笑)。

プラザ勝どき解体 2025

先日勝どき駅前バス停から有楽町へ都バスで向かう際、プラザ勝どきへの通路が閉鎖されていた。プラザ勝どき解体・建て替えのニュースは知っていたがとうとう解体かと感慨深かった。

1987年末完成後から1995年までA棟4階のワンルームに住んでいた。1986年からラケットボールをするためにドゥ・スポーツプラザ晴海へ東銀座から送迎バスで通っていた(豊洲駅は未だ無い)。バスで勝鬨橋を渡るときに見える建築中のプラザ勝どきにある日入居者募集の垂れ幕が掛かり、引っ越し先を探していた私は立地に惹かれたのだった。当時勝どきに住んでいると言うと「人が住んでいるの?」と訊かれたような場所。

建築から40年経たないうちに解体とはずいぶん早く経済寿命が来たものだ。

入居前に室内やベランダからの風景を撮ったポラロイド(ノイズ除去済み)が出てきた。

キッチンは電熱ヒーター1台のみ。A棟は大型給湯器からの集中給湯で住居にガスが配管されていない。ガラスが田の字にはまっている白いドアを友人から「男女7人夏物語の扉」と命名されたが確かに似ている。当時流行っていたのだろう。

ベランダから勝鬨橋を見た画像には二葉亭(後のデニーズ)の屋根が写っている。視点は異なるが現在のストリートビューではニチレイとその横の倉庫が無くなりニチレイのビルになっている。築地市場の立体駐車場も無い。

ベランダから隅田川上流側を見た画像にはIBMビル(当時)、三角形の築地永谷コーポラス、明石町ポンプ所、つきじ 治作(料亭)が写っており皆現存する。画像右端のマンションは建て替わりその先に聖路加タワーが建つことになる。

8ビットCPUで作成したCGアニメーション 1980

SubLOGIC社製8080/Z80 3D graphics package 1978でふれたシャープ製Z80ボードSM-B-80Tと256*160ドットのモノクログラフィクスボード上でsubLOGIC社製3Dグラフィクスパッケージを走らせCRT画面を8mmフィルムカメラ(ニコン R8)でコマ撮りして1980年に作成したCGアニメーションの8mmフィルムを発掘した。

デジタル化し再編集、スピード・輝度調整した動画を載せる。

どうしてCRTを8mmフィルムでコマ撮りしたのか意味不明に感じられるだろうが、画像1カットを描画するのにおそらく数秒はかかっていてリアルタイムでは動画にならない。プリントスクリーンのような機能を付けて撮ったら動画化できたかもしれないが当時そのスキルが無く、手元にコマ撮りできる8mmフィルムカメラがあったのでそれで撮影しようということになったのだろう。カメラは電気接点でシャッターが切れたのでCPUボードから接点ON/OFF制御できる回路は組んだのだが実際自動でシャッターを切ったのか記憶に無い。

30年間暮らしたタワマンからUR団地へ引っ越した件 2 2025

引っ越しは最高の整理術かと思う。16年間住んだベルタワーからより狭い部屋に引っ越すために大量の粗大ゴミ、燃える・燃えないゴミを捨てた。いかに無駄な物を大量に収納して無駄なスペースに高い家賃を払っていたかを考え、住まいに対する意識がガラリと転換した気がする。

タワーマンションからの眺めは良くライブカメラも運営できたわけだが毎日眺めることは無い。それより中央区、江東区に住んだ最大のメリットは都心から郊外へ逆方向(下り)通勤する事で通勤ラッシュとずっと無縁でいられたことだろう。中学、高校時代がもっとも通勤ラッシュに巻き込まれていたと思う。

今回引っ越した団地でもここから都内へは通勤ラッシュとなる。今の仕事先は都内から離れる方向なので引き続き安泰?だ。

この団地は最寄り駅←→団地間のバスが1時間に4~6本出ておりクルマがなくても便利。また団地のバス停から部屋まで3分ほどで、部屋から団地内の個人商店、スーパーまでも3分で行ける。団地は広いのでこの部屋の位置も引っ越しを決めた理由の一つだ。またリビングの目の前は広い公園で木々の緑が眼に入ってくる。

住民数が多いので団地内の商店街が機能しているのも良い。個人商店で肉、魚、野菜を買うなんて子供の頃以来かもしれない。比較してベルタワー近くの辰巳団地の団地内商店街はベルタワーに引っ越した16年前は半数くらい開いていた気がするが今はほぼシャッター街である。ベルタワーは最寄りの辰巳駅から歩いて15分弱かかり、駅からのルート上にある食品スーパー「ワイズマート」からベルタワーまでも12~13分かかった。団地内のスーパーと比べれば「ワイズマート」の方が利用者が多くずっと気が利いていたが利便性を考えると現状は悪くない。また15~20分歩けば大型スーパーもある。

人のことは言えないが団地の印象としては高齢者の方が多い。建築年近くから住み続けられている方もいるだろう。

大きく環境が変わり、暮らしやすさとは何か考えている。

30年間暮らしたタワマンからUR団地へ引っ越した件 1 2025

東京都中央区「リバーシティ21新川」35F 1995~ 「リバーシティ21イーストタワーズ2」15F 2000~ 江東区「ベルタワー」16F 2009~ と30年間タワーマンションに住んできて、2025年6月に東京を離れUR団地に引っ越した。

収入と将来の生活とを考えてのことだが引っ越しの状況、部屋の環境や考えたこと感じたことを書いてみたい。

引っ越し先としてURを選んだのは入居条件を満たしていれば誰でも入居可能であり民間賃貸の年齢や信用調査などの審査が無いから。ただし好条件の物件の空きは当然少なく、URの物件ページに掲載されて1週間も経たないうちに新しい借主が決まってしまう。

今回の引っ越し先はリノベーション済み(和室2部屋+DKを和室1部屋+LDKに)の部屋で同じ団地内の別なリノベーション物件をページで見つけたのがきっかけだった。問い合わせるとまだリノベーション工事中で内覧可能日までは数日あり素直に待っていたら内覧可能日以前に借主が決まってしまった。実は仮契約制度があり仮契約から7日間は物件を押さえておけるのだった(仮契約は1物件だけ可能)。

そこでその後今回の物件の掲載を見つけてすぐ団地を下見し(部屋はリノベーション中)雰囲気が良かったのでその足で現地案内所で仮契約した。仮契約中もURの別物件を内覧したが、結局リノベーション済みの今回の部屋の契約となった。

契約から入居可能日(鍵受取日)までは12日間ぐらいで原則その日から1ヶ月以内に引っ越すことが求められる(延長は可能)。私はぎりぎり1ヶ月以内に引っ越したが、契約からはなかなかせわしないスケジュールとなる。

引っ越し先の部屋はベルタワーと比べると広さは2/3、家賃管理費は1/3である。内覧時になんだか部屋が明るいことに気付いたがそれもそのはず南北両面に窓があるのだ。トイレとバスルームに窓があるなんて戸建ての実家以来である。いままで住んできた全てのマンションでトイレとバスルームに日はささず日中でも真っ暗だった。ついでに廊下が存在しない(階段の踊り場左右に玄関がある)ので廊下に面した部屋も無い。建物両側の窓を開ければ風が通り抜ける。

建築年は1970年だが度重なる改良・リノベーションで設備的には今時のマンションだ。建築当時はBF型風呂釜だったであろう場所には新しい給湯器が付き洗面所でもキッチンでも当然お湯が出る。トイレにもコンセントがある。が、改良・リノベーションを繰り返した結果カバーに覆われた追加の配管・配線類があちらこちらに見られることになり建築当時からの給排水の太い鉄管も室内にむき出しだ。洗練からはほど遠いが70年当時からの建具に味もありこの感じが楽しめる人向きである(私は楽しい)。たとえばバスルーム入口の人研ぎだったりする。収納は少なくキッチン収納以外は押し入れしかない。押し入れに広い天袋があるのが救いである。

天井高は230cmで低め。室内ドアやふすまの高さは174cm、ベランダに面した掃き出し窓のガラス戸高は170cmである。建築年から判断するとスラブ厚は120mmのようで階上の騒音は伝わりやすいが住民が互いに気を遣い合っている印象で、実際ベルタワーより静かである。

意外に感じるかもしれないがTV視聴とインターネット環境はベルタワーより良い。ベルタワーでは部屋のアンテナ端子では地上波しか観ることができずBS・CSを観るためにはケーブルテレビかアンテナ取付が必要だった。ケーブルテレビでは視聴料の他、指定のレンタルセットトップボックスしか使えないのでBS・CSアンテナを取り付けていた。こちらでは部屋のアンテナ端子(無料)で地上波・BS・CSが観られる。

インターネット環境はより差が開きベルタワーはフレッツ光ネクスト、機器室から部屋までは電話線を利用したVDSL接続で下り68Mbps位であり夜間はスピード低下することもあった。こちらでは部屋まで光ファイバーのフレッツ光クロスで今「みんそく」で計ってみたらIPv6接続で下り3032.77Mbps上り2344.56Mbpsだった。40倍以上速い。

長くなったので次につづく。。。

YMO The Beeライブの別画像 1979

Instagramに初めて観るこんな画像が! レーザーの色が綺麗に写っている。自分がオペレーションしていたアナログ波をミックスした図形を思い出した。

画像左下に反射が見えているので雑誌か何かを撮影した物だろうか? おそらく別カットもありそうだ。

46年近く経って新しい画像に巡り会えるとは。。。

と思ったらまた別な画像が。こちらはやや粗いが。。。

六本木 The Bee こぼれ話 1979

The Beeで使用していたレーザーはSP(スペクトラ・フィジックス)製のクリプトンガスレーザーで3相200V電源と冷却水(水道蛇口全開以上の流量)を必要とし、ベースは金属製だがレーザー管本体は外側の水冷ジャケットも含め総ガラス製でパッと見完全に実験器具の印象の物。

ある日、調整だったか見学だったかで日本代理店丸文の技術の方が来られたことがあった。日本初のディスコ設置に興味津々という感じで、完全に見学モードの女性社員の方も一緒だった気がする。当時他の納入先と言えばおそらく企業か大学の研究室だったのではないだろうか。

その時に聞いた話。その技術の方は1970年大阪万博鉄鋼館スペース・シアターに設置されていたレーザーディスプレー(私も中学生の時に観た!)の面倒を見るために常駐されていてなかなかおいしい仕事だったとのこと。大企業が大金を投入していたのだから待遇も良かったのだろう。

「SC/MPによるマイコン入門」の雑誌記事 4 1978

「SC/MPによるマイコン入門」連載第4回(最終回)の記事。

改めて記事を読んでみると電子工作初心者向けに分かりやすくかつ製作上の注意点がしっかり押さえられており、自分が作る気になったのも納得である。当時、なんとかギリギリ理解できて手が届きそうな感覚だったと思う。

「SC/MPによるマイコン入門」の雑誌記事 2,3 1977

以前初めてのマイコンECOM-800は自作だった 1978で1977年10月号から1978年1月号まで月刊誌トランジスタ技術に掲載された「SC/MPによるマイコン入門」を読んで人生初のコンピューターを製作したことを書いた。

雑誌記事は1から4まで4回掲載されたのだが、そのうち2から4までの掲載誌が出てきた。1977年11月号と1977年12月号の記事を以下に載せる。47年前の記事である。

1970年代後半当時の個人で手に入れられるコンピューターに関しては「1970年代後半期におけるマイコン・キット製品 vs PC製品」という論文に詳しく解説されている。