石丸電気の領収書 1982

その昔、TVで石丸電気サトームセンオノデンのCM盛んなりし頃の話。

秋葉原で家電製品を買っていたのは石丸電気が多かった。
買い物をするとマニュアルや保証書をファイルしておくクリアファイルをもらえた。
石丸電気 電化ファイル オーディオファイル
今でも5冊とってある。
毎回もらえたわけでもなくどういうタイミングでもらえたのか忘れたが、今ではちょっと考えられないサービスである。
この頃石丸で買い物をすると、販売員が5,6枚綴りの複写式の伝票に手書きで色々書き込み処理していた。
その伝票をコンピューターに入力していたようで、後で修理サービスに持っていくとガラステーブルの下に置かれたIBM製のCRTターミナル(グリーンモニタの付いたPCではない端末)で検索できたように記憶している。
石丸電気の領収書 表
石丸電気の領収書 裏

POS端末
やバーコードの無い時代だったんですね。
ところでこの頃、新宿のラオックスで買い物をした時の忘れられない光景がある。
商品を持って会計に行くと、伝票と支払った現金を筒にいれエアーシューターで送り出すのである!
会計にはレジスターがない。
しばらくすると「シュポッ」と筒が戻ってきて、中からオツリと領収書を取り出して渡してくれた。
つまりその店の現金処理を全て1箇所に集中させて処理し、効率化しようということだったと思われる。しかし考えてみるとその会計処理をするフロアは機械的で、全く人間味の無い職場だったに違いない。
お客の顔は全く見えず各階からのエアーシューターが並んでいて、前触れも無くそこに「シュポッ」と届く筒を開けて処理して送り返す作業の連続なのだから。。。
今考えればまるで「未来世紀ブラジル」の世界じゃないかと思ったらすでにこんな書き込みも。

2011年8月 3日

チューリヒ(チューリッヒ)オペラハウス 2 2004

イベントでスタッフに配られたネックストラップ。金と赤の組み合わせでなかなかゴージャス。
FIFAロゴ入りのサッカーボールマスコットも付いている。コレクターに売れないかな?(笑)
クリックで拡大。
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イベントの翌日、チューリヒ空港からフランクフルト経由で帰って来た。
チューリヒ空港で飛行機までバス移動の途中、隣にアルマーニのマークの入ったスーツカバーを3つ4つ持っている男性がいる。珍しいなと思ったら、前日のマエストロ氏だった。移動も大変です。
チューリヒは路面電車と、坂が多いためかトロリーバスが走っている。路面電車に乗ってみたが、料金箱も改札も一切なく切符の購入(乗り場で買う)は乗客の自主性にまかされている。色々な料金徴収のコストを考えると合理的な選択なのだろう。
購入した切符と路面電車・トロリーバス。路面電車の画像では手前に路面電車の架線とトロリーバスの架線の交差部分が写っている。昔は東京でも都電とトロリーバスが交差していたことを思い出す。
チューリッヒ 路面電車 切符
チューリッヒ路面電車 2004
チューリッヒ トロリーバス 2004

おまけ。チューリヒでこんなクルマ(自転車)を見つけた。当時少し話題になっていたような気もするが、電動アシスト付きあるいはバッテリー走行も可能な3輪車だったと思う。側面からの画像にペダルが見えている。
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2011年6月20日

チューリヒ(チューリッヒ)オペラハウス 1 2004

2004年、新たに開発したLED大型スクリーンシステムをドイツの会社に納入した。

そのシステムがFIFAのイベントでデビューすることになり、機材の最終調整(バージョンアップ)とサポートのため現地に出張することとなった。
ドイツ・ラシュタットに数日間滞在して機材を調整した後、スイス・チューリヒにクルマで向かった。
チューリヒ湖と泊ったホテル付近の街並み。クリックで拡大。
チューリッヒ 2004 1
チューリッヒ 2004 2

イベント会場はチューリヒオペラハウス、イベントはFIFA CENTENNIAL WORLD PLAYER GALA 2004。その年の最優秀サッカー選手を表彰する式典である。
裏手からみたオペラハウスとイベントの仕込み風景、劇場内の装飾。中央にはお約束?の巨大なシャンデリア。
チューリッヒ オペラハウス 2004 1
チューリッヒ オペラハウス 2004 2
チューリッヒ オペラハウス 2004 3
チューリッヒ オペラハウス 2004 4
チューリッヒ オペラハウス 天井 1
チューリッヒ オペラハウス シャンデリア
チューリッヒ オペラハウス 天井 2

チューリッヒ オペラハウス LEDスクリーン 1チューリッヒ オペラハウス LEDスクリーン 2


このイベントの司会者はベッケンバウアー、ゲストにはベッカム夫妻も招かれていた。オーケストラと(多分高名な)オペラ歌手が男女3名くらいずつ出演し、オペラの名曲とサッカー映像が流れるという面白い組み合わせだった。印象的だったのはある女性歌手が舞台袖で選手登場を観て「キャー、ロナウジーニョよ!(ハートマーク)」みたいなリアクションをしていたこと(笑)。オペラ歌っててもサッカーファンで不思議じゃないと納得。
舞台風景。
チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 1

チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 2


舞台に吊るされていた飾りは翌朝撤収中。チューリッヒ オペラハウス FIFAイベント 撤去中

2011年6月20日

アスキーネットの会員カード 1986頃

アスキーネットの会員カードが出てきた。

バーコードも磁気ストライプもなしのプラスチックカード。
裏面にコマンドの簡易マニュアル(忘備録?)が載っている。当時のパソコン通信はDOSベースだから、コマンドを打ち込まないと何も始まらなかった。クリックで拡大。
アスキーネットの会員カード 表
アスキーネットの会員カード 裏

2011年6月18日

ナック マイ・シャローナ 1979

The Beeで半年くらい全く無休で働いた後、知り合いを引っ張り込んでThe Beeから抜け出しつつあったころ、私はYさんの会社でレーザーディスプレイ機材の製作の手伝いを始めた。

会社と言ってもYさんの自宅兼仕事場、福生の米軍ハウス・ジャパマハイツの一軒家だった。ハウスは今でも住み続けられているようだ。
そこで4,5人のスタッフの一人として働いていたのだが、何しろ自宅から遠く通えない距離だったので私ともう一人は空いているベッドルームを使って泊りこんでいた。月曜に行って金曜に帰ってくるみたいな感じだったと思う。食事はYさんとYさんの家族といっしょで半ば住み込みか。
機材をクルマに載せ中央高速を走って都内まで仕事に行く時、カーラジオはいつもFENだった。今では信じられない話だが当時ラジオで洋楽が聞きたければFENだった。そしてその頃いつも流れていたのがナックマイ・シャローナ。当時の思い出と強烈に結びついている。すでに亡くなられたメンバーもいるんですね。。。
なんと歌のモデルとなったシャローナさん本人がちゃっかり自分のウェブサイトでも流している。
ある日The Beeでのイベントの仕事が日曜の明け方近くに終わり、ドロドロに疲れてクルマで帰る途中夜も明け、朝6時ころ男3人ファミレスで朝食となった。入って席に着くと満面の笑みをたたえた店長らしき男性がメニューを持ってきて一言「これからおでかけですかぁー?」。確かに日曜だし、釣りに出かける3人組にでも見えたんだろうけど。。。コントのようにコケル3人だった(笑)。

2011年4月13日

カリフォルニア州 デービス 4 1994

残るは実技と口頭試問。

実技試験では結局リパックそのものはやらなかった。実技のうちで覚えているのは、ぐちゃぐちゃに絡んだメインキャノピーを正常な状態に戻す作業である。
前に書いたがパラシュートはメインとリザーブの2つのキャノピーがら成り立っていて、メインが正常に開かない場合リザーブキャノピーを開く。ただその場合メインキャノピーがどのような状態であれ外に出ているままリザーブキャノピーを開くと、2つのキャノピーが絡む危険がある。なのでその場合、まずメインを切り離して(カッタウェイ)からリザーブを開かなくてはならない。切り離すと言っても切り離し機構が装備されているのでハンドルを引くだけだが。。。
そうして風で翻弄されながら落ちてきたメインキャノピーはこれが開いていたの?というくらいパズルのように絡み合っている。そこで直す作業が必要になるのだ。
口頭試問では、作業手順やその方法、素材の種類や型番などを聞かれたと思う。
さてやっと合格となったが、この試験の合理的なのは合格となった瞬間からリガー資格が有効となるところである。
リガーは各自の7ケタの番号の他にやはり1人ごとに異なるアルファベットと数字3文字を組み合わせたシールシンボルを持っている。リガーはリパック後、リザーブキャノピーのピン(このピンにつながったハンドルを引いてピンを抜くとリザーブキャノピーが開く)にシール用の弱い力で切れる糸を結び鉛のシールで封印し、そのシールに3文字のシールシンボルを刻印する。リザーブを開かない限りそのシールは付いており、どのリガーがそのリザーブをリパックしたのか一目でわかる。
このシールシンボルを試験官は各自複数個割り当てられていて、合格した人間にその場で与えてくれるのだ。7ケタの番号は1~2カ月しないとFAAから発行されないが、それまでシールシンボルさえあれば7ケタ番号部分は”Pending”(未決定)としておけばよい。
アメリカ人は海外旅行に行きたがらないというCNNの記事があり、もちろん当時もそうだったと思う。
でも現地にいると、わずか10日間の滞在ではあったがアメリカは十分広い(広すぎる)からここで暮していれば十分じゃない?という感じが確かにした。だから「アバウト・シュミット」のシュミット氏だってリタイア後は夫婦で世界一周、じゃなくてでっかいキャンピングカーでアメリカを走りまわろうと考えたのだ。もっともその矢先奥さんが倒れてしまうのだが。。。
感謝祭にレイの家に招待されたときTVで「カッコーの巣の上で」を観たのだが、そういえばこちらもジャック・ニコルソンだった。
以下はActionAirとバンクハウスの往復の途中で撮った画像その他。
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2011年4月13日

カリフォルニア州 デービス 3 1994

リガーの仕事の70~80%位を占めるのがリパック作業である。スカイダイビングで使用するパラシュート(パラシュートとは装備全体を指し、開く傘の部分はキャノピーと呼ぶ)にはメインとリザーブ(予備・非常用)の2つのキャノピーがパックされて(たたまれて)入っている。メインキャノピーを普通使うわけだが、万一メインが正常に開かない場合リザーブキャノピーを使って降下する。
メインキャノピーはジャンパーが自分でパックするが、リザーブキャノピーはリガーがパックしなくてはならない。より安全性を高めるためである。また、リザーブキャノピーは180日ごとにリパック(広げて点検し、たたみ直す)しなくてはならない。
リガーの試験を受ける前にリガー資格者にスーパーバイズ(監督)してもらいながら20個リパック作業をしておく必要がある。それは監督者の署名とともにパックデータブックに記録される。
また「この者は確かに20個練習した」という証明書類をリガーに作成してもらう。
シニアリガーの試験は、筆記、口頭試問、実技の3つ。
デービスについた翌日にサクラメントにあるFAAの試験センターに筆記試験を受験しに行った。
ここでまずパックデータブックと証明書類を係員に提出し確認してもらう。係員はそれを見つつ、たとえば「このリザーブキャノピーはこちらのリザーブキャノピーとどういう違いがあるのか?」などということをこちらにいくつか質問してくる。そう、リガー資格を取るためには英語を理解出来なくてはならないという前提条件があるのだ。「こいつは話せるのか英語を?」と疑わしそうな目を向けてくるオジサンの質問を冷や汗ものでなんとかかわし試験を受けることが出来た。
筆記試験は3択問題が50問出て70点(70%)以上の正解率で合格。試験はPC上で受ける。部屋の周囲にずらりとPCが並んでいて様々な試験を受験者が同時に受けられるようになっていた。回答はマウスで選択するようになっていた。1994年だからOSはWindows3.1か、問題はキャラクター主体だからDOSベースだったかもしれない。
回答し終わり全体を見直した後「これで終了」をクリックすると「本当にいいのか」と確か2回ほど念を押され「OK」と答えるとその瞬間、画面に点数が出た(笑)。80数点くらいだったかな。
この数年後、別の人間がリガー試験を受けに行く時、東京にもFAAの試験センターがあることが分かった。結局リガーの筆記試験はそこでは受けられなかったのだが、パイロットや整備士など日本にもかなり受験生がいたためと思われた。ところが911以降、アメリカ国外の試験センターはほぼ無くなってしまい、日本では沖縄の基地内にしかない。テロリストがパイロットのトレーニングをしていたことに関係しているのだろう。
サクラメントにはスタッフ(バイト?)のイギリスから来ていた20代のオニイちゃんに車に乗せていってもらった。大きな街路樹が立ち並ぶ瀟洒な住宅地を走っていて、ふと気がつくと建ち並ぶ家々が小さくなっている。置いてあるクルマも10年以上昔のおんぼろ日本車だ。そう、ブロックでがらりと雰囲気と住民層が変わったのである。

このオニイちゃん「えっ?」とか「なに?」とか人に聞き返す時ぶっきらぼうに「Sorry!」と言っていたのが印象的だった。

この後ActionAirのロフトでハーネス用の大型ミシン操作とか、キャノピー修理など練習の日々。時間があればジャンプもするつもりで自分のパラシュートを持って行っていたのだが予定していた日は雨。結局別な日に1回だけジャンプすることが出来た。「これならわざわざ日本から持ってこなくても貸してあげたのに」とレイに言われた。。。ごもっとも!

2011年4月11日

カリフォルニア州 デービス 2 1994

私は自動車免許を持っていないので自転車を貸してもらい、ActionAirから走って5分くらいのところにあるバンクハウスに泊っていた。

これはジャンパーのための簡易宿泊所で食事は自炊、ベットは基本的に棚だけで寝袋持参。キッチン、バス、トイレ付き。下の画像のあんまりきれいとは言えない平屋がそれである。普通の小さな一軒家。左のクリーム色のバンはActionAirのスタッフのもので、右のVWキャンパーはジャンパーカップルが大型犬を連れ乗って来ていたもの。
SkyDance Bunkhouse 1994 1
SkyDance Bunkhouse 1994 2

SkyDance Bunkhouse 1994 3

上2番目の画像はキッチン。食事はスタッフの車に便乗させてもらって一緒に行ったり、スーパー(セーフウェイ)に乗せていってもらって買っていた。
セーフウェイにはイートインコーナーがあって丼物もあり「鳥唐揚げあんかけ丼」みたいなのを昼に食べたことがある。そのとき一緒にいたスタッフも普通に箸で食べていた。飲み物はコークだったけど。
感謝祭の時期だったのでレイの自宅に招待され七面鳥をごちそうしてもらったり、デービスにある寿司レストランに連れて行ってもらったりした。この寿司レストラン、店員は皆一見日本人だけど皆そうではなかった(笑)。
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感謝祭に自宅に招待してもらった帰り、クルマの中でレイの奥さんが私がクリスチャンでないということにとても不思議そうにしていたのが印象に残っている。
平日バンクハウスには私一人だったが休日や週末になるとジャンパーたちがやってきて3,4人位泊っていた。ジャンパーの中に仕事用の巨大なトラクターヘッドでやって来ている人もいた。下の画像はそのトラクターヘッドとジャンプの練習をするジャンパーたち。右はじのカーボーイハットに注目(かっこ良かった)。
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SkyDance DZ1994



2011年4月 3日

カリフォルニア州 デービス 1 1994

1994年11月、カリフォルニア州デービスに10日間滞在した。

FAA(アメリカ連邦航空局)のシニアリガーライセンスをとるため、1人で実習を兼ねて受験しに行ったのである。
これはパラシュートの整備資格で日本国内には同様の公的資格は無く、USPA(全米パラシュート協会)の規則に従って運営されているスカイダイビングクラブで整備の仕事をするために試験を受けに行ったのだった。より上級のマスターリガーライセンスもあり、日本にシニアリガーは20人位、マスターリガーは5人位いるのではないかと思う。
UAでサンフランシスコまで行き国内線に乗り換えてサクラメント空港からタクシーで目的地に向かった。今では考えられないが当時は機内に喫煙席があり、夜中に機体後方のトイレに行くとギャレーでパーサーたちがタバコをふかしていた。
Airline.jpg
GGBridge.jpg

私の記憶ではアメリカ国内で向かった先はサクラメントではなくもっとローカルな空港だったと思いこんでいた。というのも、何とも田舎な空港で確か平屋建てだった上にバゲッジの受け取りが屋外の木の棚に荷物が並べてあってピックアップするという、えらいのどかな状況だったから。国内線ターミナルだったせいかもしれない。
タクシーで向かっていくと、広大な畑の上をトラクターではなく小型の複葉機!が往復しながら何か散布している。映画「カプリコン1」でテリー・サバラス扮する操縦士が主人公たちを助けたアレ(予告編の2:30あたりから)である。あぁーアメリカだぁーと実感。ちなみにこれが初海外だった。
私が実習と試験を受けたのはデービスのYolo County Airport隣接するSkyDanceドロップゾーン(スカイダイビング降下場)にあるActionAirというショップ&ロフト(整備工場)だった。クルマにたとえるなら新車中古車販売をしている整備工場といったところだろうか。私が撮影してきた画像と今でもほとんど変わっていない。
Skydance DZ 1994

Skydance DZ 2 1994

ActionAir Loft 1

ActionAir Loft 2

ActionAir Loft 3


そこにFAAの試験官資格を持っているレイ(Ray)さんがいて彼がドロップゾーンのオーナーだった。
パイロットでもありインストラクターでもありリガー(の試験官)でもあった。インストラクターの試験官資格も持っていたかもしれない。スカイダイビングのメッカであるアメリカでもドロップゾーンを経営していくためには1人何役もこなさなくてはならないのだ。


2011年4月 2日

三重メトロヒルズ ショープラザ 2000

2000年に三重メトロヒルズ・ショープラザという不思議な場所に仕事で行ったことがある。そこにはゴルフ場に隣接した天然温泉付きのホテルと隣接したレストランシアターがあり、当時レストランシアターはすでに閉鎖、ホテルは休業中、温泉のみ営業中だった。現在は温泉も閉鎖(このページ下の画像で右に見えているのがレストランシアター)されたらしい。

福山雅治コンサートツアーのリハーサルで閉鎖されたレストランシアターを利用し、ステージに使用された自分が設計製作にかかわった大型LEDスクリーンのオペレーションのために行ったのだった。
リハーサルといっても照明と舞台装置のみのテクニカルリハーサルのためご本人の登場は無し。
このレストランシアターは資料によれば1994年にオープンし、ラスベガス直輸入の「スプラッシュ」というミュージカルを上演していた。出演者・舞台装置全てを持ってきたのである。シズまでアメリカから持ってきたと噂になったらしい(笑)。
タイトル通り水を多用したショーで緞帳の代わりに舞台前面が滝になる仕掛けとか移動式の巨大な水槽とか当時の名残りが色々あり、客席は多くのテーブルを舞台に向かって半円状に囲むように配置されていてロビーには出演者たちのパネル写真がそのまま飾られていた。
リハーサルは数日間行われたのでスタッフたちは隣の休業中のホテルの部屋を使えるようにしてもらい宿泊し、休業中のレストランで食事(給食)を作ってもらっていた。
普通こんな風にシアターが閉鎖されホテルも休業したら潰れそうなものだが、(なぜか)会社にはお金があり経営を続けられているとのことだった。。。
このシアターを使ったリハーサルは2006年にはまだ行われていたようだ。

2011年3月27日